「はい、じゃプリントを後ろに回して」
教師が言う。バサバサと音を立てながら、生徒達が自分の後ろの席に紙の束を回していった。
「ほい」
その生徒は、ろくに後ろを見もせずにそれを渡してよこしたが、急に振り向いた。
「なに?」
驚いた小田リリィが目を丸くした。
「あんた……」
校則違反すれすれの化粧をした上山亜矢も同じように目を丸くしている。
「どうしたの。
私の顔に何かついてる?」
「あんた、この席だったっけ」
「何言ってんの、今頃」
「だって……なんか違和感」
「ひどい。
あたしのこと忘れたんだ」
リリィが泣きまねをする。
「んなんじゃねぇよ」
「ひどぉい」
と、後ろから肩をつつかれた。
「ねぇ、プリント」
「あ、ごめんなさい」
リリィが紙を後ろに渡し、亜矢はまだ納得がいかない様子で首をひねりながら姿勢を戻した。
「先生、一枚足りません」
その列の一番後ろから声が上がった。
「え、ちゃんと数えたのに。
予備もないんだ。ごめん、隣から見せてもらって」
ぶつぶつ言う声が聞こえる。リリィが振り向くと、さっき彼女の肩をつついた下田真美は、眼鏡を拭き終わったところだった。それを掛け直しはしたが、まだ目を細めて黒板を睨みつけていた。
「どうしたの?」
「なんか急に見えにくくなっちゃったの」
「夜更かしした?」
「そんなつもりないんだけどな」
「夜更かしはお肌の大敵だよ」
こら、そこ、という教師の声。リリィは舌を出しながら前を見た。
晴嶺(せいれい)学園の、かすかなぎこちなさが漂う休み明けだった。それはひょっとしたら、夏休みの直前に行われた林間学校で、生徒が人質に取られてしまう、という事件があったせいかもしれない。
今日は今日で、教師達が配るプリントはすべて一枚足りず、あるいは、クラスメートの何人かが、リリィを呼ぼうとして名前を思い出せない、ということがあった。リリィはそのたびに泣きまねをした。
そんな放課後。
「あーやちゃん、どっこ行っくの」
「いや、ちょっと」
静かに帰ろうとする亜矢を呼び止めるリリィ。
真美も横に並び、ただし、彼女のほうは亜矢を睨んでいた。
「今週は中庭のお掃除当番。
ひょっとして忘れてた?」
亜矢はかすかに引き攣った顔で笑った。
「あ、そうだっけ。
すっかり忘れてた」
「じゃ、行きましょ。
おっ掃除、おっ掃除、楽しいな」
リリィに手を取られた亜矢は、なにが楽しいんだよ、と顔をしかめた。そのままの顔で引きずられていく。
「汚いのよりきれいなほうがいいでしょ」
リリィの言葉に頷く真美。
「中庭なんかどうだっていいよ」
「やっぱりサボるつもりだったんだ」
真美が厳しく指摘した。
「まじめぶりっこ」
「なんですって」
「お掃除くらいできないで一人前の口きくんじゃありません」
「おふくろみてぇなこと言うんじゃねぇよ」
「亜矢ちゃんって『汚ギャル』?」
「自分の部屋はちゃんとやってるよ。こないだも言ったろ」
一瞬、リリィの瞳が揺れるが、すぐに言い返す。
「掃除当番をサボろうとした人の言うことは信用できないなぁ」
そうそう、と真美が頷く。
「お化粧で外側ばっかり飾っても」
「内面が問われるってか。
おまえ、本っ当に言うことがババくせぇのな」
「亜矢ちゃんよりは若いんだよ。
二ヶ月と四日分」
「中身の問題だよ」
「う」
言いこめられてしまった。
「へっへーん。
あ、いた、痛いってば」
リリィは、亜矢を引っ張る手に力を込めて復讐することにした。
「こんなもんかな、班長」
「うん。いいと思う」
班長の真美が OK を出した。
「ほら、真面目にやればすぐに終わるでしょ」
とリリィは腕時計を突き出した。
「お前さ、いまどき腕時計はないだろ」
亜矢が悪態をつく。
「この二十一世紀の地球に生きる女子高校生は、ケータイでしょ、ケータイ」
「持ってるわよ、ケータイくらい」
と、今度はそれを突き出す。
「あれ。
こないだ出たばっかりの奴。
ババくさいくせに新し物好きなのな」
「え、見せて見せて」
優等生の真美も、それには関心があるらしい。掃除のメンバー、全員が集まってきた。
「うっそ、かわいー」
「でしょ、で、これがね」
「えー、すごーい」
「ね、あたしにも見せて」
「ちょっと、乱暴にしないでよ。こら」
と騒いでいると、リリィのポケットから細長い箱が落ちた。
「あ」
乱暴に同級生を寄せて拾い上げる。
「それって」
亜矢は、早くも MD を駆逐したとまで言われる、音楽再生装置の名前を挙げた。
「そ。
あんたたち乱暴なんだもん。見せてあげない」
「まぁまぁ、そうおっしゃらず。
掃除も早く終わったことだし、もうちょっと見せてくれたまえよ」
「い、や」
「そう言えば、本当に早いね」
真美が自分のケータイで時間を確認していった。
「大勢でやったみたいだね」
またリリィの瞳が揺れる。
「いつもサボってる人がいるからじゃない?」
ごまかすように言うと、彼女達の視線は亜矢に集まった。
「悪かったな!」
舌を出すリリィ。
「てめぇ、ババァのくせにそんな可愛いもの持ってんじゃねぇよ」
「汚ギャルの化粧よりましですぅ」
「あたしは汚ギャルじゃねぇっ!」
おいかけっこが始まる。
箸が転んでもおかしい年頃。最新のケータイとプレイヤーと汚ギャルというアイテムが並べば、こうなってしまうのは当然だった。
「あーやちゃん、どっこ行っくの」
「お前まで『ちゃん』づけすんな!」
亜矢が怒鳴る。
優等生の真美と、授業より化粧が命の亜矢とはそれほど仲がよくない――というよりは、はっきり反りが悪かったらしいのだが、ここのところ急に打ち解けてきて、ついに、真美が亜矢を「あやちゃん」などと呼んでからかうようになった。
亜矢の表情を見る限り、本当に嫌がっているようなのだが、リリィも真美もこんな楽しいオモチャを手放す気はない。
「同じ駅なんだしぃ。一緒に帰ろうよぉ」
リリィが「しな」を作る。
「うぜぇ」
「言葉の乱れは心の乱れだよ、亜矢ちゃん」
「ババくせぇ」
「お里が知れるわよ」
「お前、本当に女子高校生か?
サバよんでねぇか。十五歳くらい」
「私が赤ちゃんに見える?」
「引くな!」
休みが明けて以来、亜矢は一日に数回は怒鳴っている。彼女はどうやら、こういう形の、ちょっと上からからかわれる、という経験があまりないらしい。どちらかと言えばグループ内のリーダー、あるいはサブリーダーくらいのところにいて、仲間をからかうほうの、つまり、「ツッコミ」側の性格だったはずが、リリィや真美と話していると、どう見ても「ボケ」にされてしまっている。なんでこうなっちまったんだ、というのが口癖になった。
「ねぇ、喉渇かない?」
駅前の商店街にさしかかるころ、真美が言った。亜矢が急に立ち止まる。
「お茶しようって?」
「うん」
「優等生のあんたが、そんなこと言うとは思わなかった」
「あたしだって喉は渇くし、コーヒーくらい飲むよ」
「別にお酒飲もうって言ったわけじゃないしねぇー」
「ねぇー」
リリィと真美が意地悪くうなづきあう。今度こそ亜矢の堪忍袋の緒が切れたらしい。
「帰る!」
「待って!」
リリィが叫んだ。亜矢は背を向けたまま。
「おせぇよ。
もうお前となんか口きいてやらない」
「違うみたいだよ、亜矢ちゃん」
「何が!」
「ほら」
振り向いたが、リリィはそこにはいなかった。はるか向こうでサラリーマンの腕をつかんでいる。
「誰」
「わかんない」
「行ってみよ。
なんか面白そうだ」
「大崎さん!」
「……。
君は」
「お元気でした?
あの時、怪我なんかしてませんよね。
よかったー。もう会えないかと思ってたんです」
それは、リゾートホテルに強盗が押し入ったときに人質とされ、犯人を説得して、同じく人質になっていた高校生を解放させた従業員の、大崎賢吾だった。
「夢みたい。ここで会えるなんて」
リリィの目がわずかに潤んでいるように見える。大崎は、見間違いか、と思って目をパチクリさせていた。
「よかった……」
「リリィちゃん。
その殿方はどちら様?」
亜矢が、ここぞとばかりに、ゆっくりとした口調で聞いた。だが、リリィの答えは、亜矢と真美の想像を大きく裏切るものだった。
「知らないの?」
「は?」
「大崎賢吾さん。
スーパーヒーローの」
小声で真美に耳打ちする亜矢。
「こいつ、何言ってんの?」
「わかんない」
「林間学校のときに、人質事件があったでしょ」
「C 組だか D 組の奴がつかまったってあれか」
「その子を助け出したのが大崎さんなの」
「あぁ」
真美が思い出したようだった。亜矢はまだ首をひねっている。
「一緒に人質になったんだけど、犯人を説得して解放させたって話だったよね」
「そう。
それがこの人なの」
大崎は、当の本人であるにもかかわらず置いてきぼりになっていた。女子高校生の会話に途中から入っていけるほどのパワーは持ち合わせていない。
「ふうん」
「なんでそんな無感動なの。
三無主義!五無主義!」
「またわけのわかんねぇこと言ってるよ」
「その単語、お母さんが使ってたの聞いたことがある」
「もういい!
大崎さん、行きましょ」
「え。
行きましょ、って君。ちょっと待てよ。一体――」
大崎は、グイグイとリリィに引っ張られていく。亜矢と真美はそれを見送るだけだった。
「一応、事件のことは思い出したんだけどさ」
「うん」
「あんな程度の男じゃ、あたし達女子高校生の記憶に残るのは無理だぜ」
「そうかも」
真美の言葉にまたしても亜矢が驚いていた。
リリィはしばらく大崎の腕をぎゅっとつかみ、顔をもたれさせていた。最初は、困惑して色々と口走っていた大崎も、その様子に何も言えなくなり、そのまま黙って歩いた。
二人はそのうち、川沿いの公園に出た。
「あの、さ」
「……」
「そろそろ話をしたいんだけど」
「あ、ごめんなさい」
本当に我に返ったように手を離すリリィ。
「ちょっと、感動の再会に酔っちゃった」
照れ笑い。
「感動って」
「当然です!」
大崎はその勢いにまた目を白黒させた。
「自分に危険が及ぶかもしれないっていう状況で、高校生を解放させようと説得するなんて、誰にでもできることじゃありません」
「いや、それは」
それほどかっこよく決まったわけではない。あのときの大崎の声はおっかなびっくりでボソボソとはっきりしなかったし、犯人達が、勢いで高校生を捕まえたのはいいが、罪悪感を持っていることも、逆に扱いに困っているらしいこともはっきりわかった。
「あの犯人達が結構、気弱って言うか。
俺も人のことは言えないけどさ」
大崎は苦笑しながら言葉をつないでいるが、リリィは真剣だった。
「でも、大崎さんのおかげで、あの子は無事に救出されたんです。
大崎さんはヒーローなんですよ」
「誰も覚えてないけどね」
それにも色々と事情がある。
まず、大崎の言うとおり、犯人が小物だったことがある。コンビニで奪った現金は数万円、逃走用に盗んだ車にはろくにガソリンが入っておらず、逃げ込んだ場末の観光地で人質事件。事件に関するメディアの扱いはむしろ、大崎の活躍よりも、間抜けな犯人を揶揄するほうに重点がかかった。しかも、発生後数時間でのスピード解決、それに見合った速度で事件そのものが忘れられた。
そもそもホテルの従業員が人質に取られる、ということ自体があってはならないことである。犯人が小物であればあるだけ、それに捕まった大崎の評価も下がるわけだった。さらに、亜矢と真美が言った通り、彼が「イケメン」でないことは、ワイドショーの視聴者達にとっては大事な要素だった。
そしてもう一つ。
あのホテル、メイ・フォレストは先日、閉鎖された。所有していたリゾート会社、皐月観光開発のリストラの一環であり、勿論、その事件との関係も取りざたされたが、それが発表された頃から、その話は経済分野のニュースとなり、一般の関心を失った。
大崎がヒーローだった期間は、長く見ても一週間なかったのである。
「それで、東京に転勤ですか」
リリィは勿論、閉鎖についてニュースで知ってはいたが、彼女にできることはそこまでだった。本社に行って、あの人はどうしたんですか、どこにいるんですか、などと言っても教えてもらえるはずがない。思いは募る一方で、学校ではああして明るく振舞ってはいても、実は一人で苦しんでいたのだった。
「大変だったんですね」
「そうでもないよ。
あのホテルは、俺達の間でも、そろそろじゃないか、とか言われてたし。
都会に戻って来れてラッキーってのは事実かな」
「こうして会えたし」
だが、大崎は顔をしかめた。
「こういうのってまずくない?」
「……どうしてですか」
「だって、君は高校生でしょ。
俺は……おじさん、つか、オヤジじゃないの?」
確かに、彼の年齢は三十代半ば。女子高校生の倍くらいのところではある。
「関係ありません」
「学校は?」
「関係ありません」
「そんなわけないでしょう。
こんなとこ見られたら、怒られるんじゃないの?」
「うちの学校は大崎さんに恩があるんです。そんなこと言わせません」
「それは君の理屈でしょ。
世間は」
「迷惑ですか?」
「そういうことじゃ」
「あたしは、自分の危険より、他人の安全を考える人に出会ったんです。
それを素敵な人だって思っちゃいけないんですか?」
呆然としている大崎をまっすぐに見る瞳。鈍感な大崎にも、彼女なりに真剣らしい、ということはわかった。それが若者特有の思い込みじゃないだろうか、ということはあるにしても。それを「迷惑」と言う勇気は彼にはなかった。
「また……会ってもらえませんか」
「……」
「迷惑だったら、そう言ってください」
「……」
「大崎さん……」
「言っとくけど、俺はヒーローなんかじゃない」
「そんなことありません」
「俺と一緒にいたってきっとつまんないと思うよ」
「そんなことありません」
「君のためにもならないと思うけど」
「大崎さん!」
「それでもいいって言うんなら」
「……。
ほんとですか!」
そのとき、まるで花が開いたように、リリィの顔が輝いた。可愛い。大崎は本当に、自分が高校生、せめて二十歳くらいだったらな、と思った。こんなぱっとしない男に、こんな可愛い子が告白してくれたのだ。こんなうれしいことはないだろうに。
「ちょっと冷静になってくれるんなら」
「私はいつも冷静ですよ。
じゃ、これ持っててください」
リリィは鞄からカードを差し出した。携帯電話の番号が書かれている。
「大崎さんのも欲しいなぁ、なんて」
苦笑しながら、大崎は小さくため息をついた。背広のポケットから名刺入れを出す。一枚を引っ張り出し、裏に自分の携帯電話の番号を書いた。
「会社にはかけない、って約束してくれる?」
「はいっ!」
「じゃ、どうぞ」
「ありがとうございます!」
「あれ、リリィ」
駅に戻ると、亜矢と真美がコーヒースタンドから出てきたところだった。
「早かったところを見ると」
指でバツを作る亜矢。
「亜矢ちゃんってば失礼」
「だってさ」
「じゃーん。
ケータイ番号ゲット!」
貰ったばかりの名刺を突き出すリリィ。
「すごーい、リリィ」
「つか、ケータイ番号も知らないで、あんなにベタベタしてたのかよ。
そっちの方が変」
「何とでも言って。
今のあたしはものすごくゴキゲンだから許したげる」
「あんなパッとしないののどこがいいわけ」
リリィは鬼のような形相で鞄を振り上げた。
「何でも言え、っつったじゃん!」
「大崎さんの悪口は別!
天誅!」
リリィはそのまま鞄を振り下ろした。力は入っていないので、パコンと軽い音。
「痛っ!」
「今度、大崎さんの悪口言ったら、そんなもんじゃすまないからね」
「えーん、リリィがいじめるよう」
亜矢はふざけて真美にすがりついた。
「だって、今のは亜矢ちゃんが悪いよ」
「素直な感想――わー、ごめんなさい。もう言わない。約束」
「本当に?」
「はい。
二度といたしません」
「ならよろしい」
リリィはやはり上機嫌な顔のまま駅に向きを変えた。
「あたしねー、あんまり皆と一緒に帰れなくなるかも」
「約束したの?」
「まだだけどー。
そうだ。お掃除もさぼっちゃったりしちゃうかもー」
「あたしへの挑戦か?」
亜矢は真美を見たが、真美は笑いながら首をすくめただけだった。
「ババアでも恋するとこうなっちゃうんだね」
「そうなの。恋する乙女なの、あたし」
「ババアだけどね」
真美は後ろから近づいた。
「リリィ、あたしも応援するからね。
頑張ってね」
「うん」
「勿論、亜矢ちゃんも協力するよね」
亜矢は、えー、と嫌そうな顔をしたが、リリィが上機嫌なまま振り向き、真美は「人でなし」とでも言いたそうな顔で睨んでいるので、そっぽを向いた。
「ま、邪魔はいたしません。
少なくともあたしの好みじゃないし」
「ありがと、亜矢ちゃん!」
こいつ本当に舞い上がってるな、と亜矢はつぶやいた。
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