「じゃ、お先っ」
リリィが教室を飛び出していく。
「うわ、早」
どっこ行くの、とからかってやるつもりだった亜矢はあっけに取られていた。
「今日は大崎賢吾様とのデートだから」
真美がそれを暖かく見守っている。
「こんなに早く?
あいつリーマンじゃなかったっけ」
「家に帰っておめかししてから待ち合わせでしょ。
化粧オタクの亜矢ちゃんが何を言ってるの。
あれ」
「なんだよ」
「亜矢ちゃんって、ひょっとして、男の子と付き合ったこと――」
「っせぇな」
「ふーん」
「っせぇ、ってんだろ」
亜矢は机の中にたまっているプリントをつかみ出すと真美に浴びせかけた。
「ちょ、何すんのよ」
「片付けとけよ」
「八つ当たりじゃない、まるっきり」
と言いながらも、律儀に拾い集めて机の中に入れる真美。
廊下に出ると、亜矢はそこに立っていた。
「どうしたの」
「なんか……」
視線のはるか先にリリィが立っている。携帯電話を耳に当てていた。
《ごめん、今日は行けそうにない》
「え……」
《会議が延びちゃって。っていうか、2 時からの予定だったのにまだ始まってないんだ。
ちょっと、お偉いさんが来るはずだったんだけど、急用が入っちゃったとかで、そのままスライド》
「何時頃に終わるの。
あたし、別に」
《わかんない。
当初予定は、2 時から 6 時。それで、6 時半待ち合わせにしたんだけどさ。
それがスライドだから、仮に 4 時に始まっても 8 時だね。
8 時は無理だよ》
「うん……」
別に遅い時間でもいいよ、と言いたいが、大崎がそれを許さないだろう、ということはもうわかっていた。なんと言っても、リリィは女子高校生であり、分別くさいところのある大崎は、そんな時間に待ち合わせする、ということを許さない。
《あの、さ》
「うん」
《また時間作るよ。今度は会議の予定がない日にするから。
ごめんな》
「いいよ。
その分、サービスしてもらっちゃおうかな」
無理やりに元気をかき集めた、ということがわかる声だった。
《なんだよ、サービスって》
大崎も無理に笑っていることがわかる。不器用な男だな、とリリィは思った。
「うーんと濃厚なサービス」
《考えときます》
「ね、今夜、電話していい?
10 時くらいだったら大丈夫でしょ」
《大丈夫だといいな、って感じかな》
「そんなに……」
《留守電になってたらメッセージ入れといてよ。明日、折り返すから》
「うん。
じゃ」
亜矢と真美はそれをずっと見ていた。楽しそうな話ではないらしい、ということは後ろからでもわかる。楽しい話なら、身振りや手振りが混じるし、頭もあちこちに動くものだ。リリィは、時々姿勢を変えたりはしたが、視線は斜め下を向きっぱなしだった。
「どうしよう」
真美が言った。
「どう、って。
ほっとくわけにもいかねぇべよ」
大崎は携帯電話を置いた。
「10 時に終わるかなぁ……」
急な来客が二件入った、という話だった。上司が言うには、まず、それが割り込んで会議がずれる。それがどんな客だかは知らないが、四時間に及ぶ重要な会議への割り込みを許すような客だから、更に予定が変更されるかもしれない。会食ということもあるかもしれないし、その客が持ってきた案件によって、別の打ち合わせが必要になったりもするだろう。となると、逆に今日の会議そのものは流れる可能性もあるのだが、それがわかるのは 5 時か 6 時。その時点で、待ち合わせには間に合わない。
だが大崎は、心のどこかに、ほっとしている部分があることも自覚していた。
確かに彼女は可愛らしい。十代特有の無邪気なところがあるかと思えば、これもあるいは逆に若さのせいかもしれないが、妙に大人びたところもある。そういえば、友人からは時折「ババア」などと言われたりしているようだが。
大崎にとってはそこまでだった。人によっては女子高校生に言い寄られれば大喜びということもあるのだろうが、彼にはそういう趣味はない。休日ならまだしも、平日は定時退社して待ち合わせ場所に走り、どんなに遅くとも 9 時には送り届けるというのは、なかなか骨の折れる作業でもある。付き合うのなら、それなりに釣り合いのとれた相手にしたい。
(俺なんかを相手にしてくれる女がいるかどうか、ってのはまた別の問題だけどな)
「大崎」
「は、はい」
「資料、用意しとけよ。
いつ専務から、今からやるぞ、って連絡来るかわかんねぇからな」
「はい」
資料は印刷して仕分けしてある。後はクリップでまとめればいいだけだ。15 部くらいすぐに終わるだろう。
リリィは二年生らしい。進学なのか就職なのかは聞いてないが、もうすぐ忙しくなるはずだ。そうすればこんなオヤジどころではなくなるに違いない。それまで付き合えばいい。大崎自身が関わっているプロジェクトも暇ではないから、こういうキャンセルはこれからもあるだろうし、向こうが愛想をつかす、ということもあるだろう。
(俺自身は暇なんだけどな)
ずっとホテル勤務だったのが、メイ・フォレストの閉鎖で本社に呼び戻されてシステム開発部に配属。部下はいないもののやっと主任になったところだったのだが、また一からやり直しである。このご時世、クビにならなかっただけでもよしとしなければならないのかもしれないが。
システムの再構築を控えて部署全体は騒然としているが、入ったばかりの彼は、雑用が主体。暇なときは暇だ。しかし、こういうときに限って会議が入ったりする。そういう星の下に生まれたんだよ、と大崎はつぶやいた。
最初の客は帰って行った。中村公彦は秘書の鵜川に水を持ってくるよう言った。
そのミネラルウォーターを飲み干し、鵜川のトレイに戻すと腕時計を見る。
「今日のシステム開発の打ち合わせは、延期したほうがいいようだな」
「はい。
もう 4 時を過ぎておりますし。次のお客様が順調に終わったとしても、6 時は過ぎるかと」
「空いている時間はあったか。四時間の予定だとそうはないんじゃないか」
「あさっての午後でしたら。
三金会の昼食をキャンセルすれば、三時間取れます」
「そうか。今回は特に議題もないはずだからキャンセルしてもいいだろう。そうしてくれ。システム部にも、内容を絞り込むように」
「はい」
「次は、警察か。
同じ内容だろうな、おそらく」
「だと思います」
「だが、警察というのはちょっと引っかかる」
中村は、鏡に向かい、ネクタイと背広の襟をチェックした。
「工事に問題はないのだろうな」
「はい。
万全を期しております」
「スケジュールどおりに進んでいるのであれば、特に心配はしないが。こう問い合わせが来るのでは邪魔でしょうがない。体制をもう一度チェックしてくれ」
「承知しました」
秘書というよりはレスラーという印象の体を折り曲げる鵜川。
「まぁ、それもあと数ヶ月の辛抱だ。
よし。行くか」
「はい。
第三応接室でお待ちです」
そこへ向かう。中村は、ドアを開ける瞬間に笑顔を作った。
「お待たせしました」
中の男が二人、立ち上がって頭を下げた。
「あぁ、どうぞ。お楽に」
二人が身分証を開く。確かに、例の立てこもり事件が起きた町を管轄する警察の刑事だった。
「ホテルの解体工事について、ということですが」
「はい。
期間のことでちょっと確認させていただきたいと思いまして」
「期間?」
「まぁ、我々もビルのことについては素人ですので、こんなことを言うのはアレなんですが、ちょっと長いんじゃないか、ということを言う者がおりまして」
年配のほうは、いかにも「刑事」という感じ。表現は悪いが無骨な善人というところか。スポーツ選手で言うとしたら柔道しかあるまい、というイメージだった。後輩の方は、これはラグビーだろうか。いくらか洗練された印象はあるものの、彼らの間には隠しようのない共通点がある。微笑を交え、恐縮したような表現を使ってはいるが、こちらを完全に信用してはいない、ということが感じられる。
「はい」
「なにぶん、立てこもり事件のあった場所ですし、一応、確認させていただきたいと思いまして。
まぁ、これは我々警察のどうしようもない性分とでも言いますか」
笑う。
「弊社があの事件にかかわりを持っている、ということですか?」
中村も笑いながら言った。警察に皮肉を言ってもいいことはないが、言わずにはいられない気分だった。この直前に来た町役場の職員も、同じ理由でわざわざこの本社までやってきたのだ。ホテルの規模に比べれば工期が長めだということの確認で、それに「なにぶん、立てこもり事件のあった場所ですし」という言い訳がくっついているのも同じだった。
「いや、そんなことはありません。
何をおっしゃるんですか」
「捜査についてはできる限り協力させていただいたつもりですが、まだお調べにならなければならないことがあるということでしょうか」
「いや、そういうわけでは」
「それでしたら、正式にお話しいただければ、工事の中断もやぶさかではありません。
あそこは更地にした後、売却する予定ですから、一ヶ月程度でしたら工事が延びても問題はありませんし」
「いえ、本当に、中村さんの会社を疑ってるわけではないんです。
かないませんな。いじめないでくださいよ」
暑くもないのに汗を拭く。
では、この辺にしておくか。
「工期については、町役場に延長を申し出ました。長めなのは確かです」
「理由を伺ってよろしいでしょうか」
「実は、地下の設備で、アスベストを使っていたことがわかりましてね」
「アスベストですか」
肺に入ればガンの原因となる物質。断熱材などとして使われていたが、十年ほど前に使用禁止となった。
「記録では代替物質を使っている、となってましたので、それに沿って解体計画を見積もったんですが、念のためにということで確認したところ、アスベストだということがわかりました。
その確認と、施工業者から事情を聞いて原因究明をした時期は工事を凍結しまして、それで見積もりをやり直して、ということで。除去作業にも手間がかかりますので、相当に延びましたね」
「原因はもう」
「はい。
建設時には、合同企業体を作ってやったわけですが、我々から見て曾孫にあたる下請け業者が嘘をついていたことがわかりました。
それで、訴訟も視野に入れて調査したんですが、その業者がもうつぶれてしまっていましてね。当時の経営者はまだ存命ですので、その方を相手どっての訴訟が可能かどうか、調査しているところです」
「はぁ、そんなことがあったんですか」
若い方の刑事が口を挟んだ。
「そのことは発表なさらないんですか」
「町役場の方とも相談したんですが、近くに人が住んでないので、急いで公表する必要はないだろう、ということでした。
ただ私どもとしては、小さなことも発表していかないと、そのことが知られたときに、隠していた、などと言われて企業イメージが大幅にダウンするリスクもありますので、さきほどの訴訟の件がはっきりし次第、公表する予定で動いています」
「訴訟の件がネックになっているわけですか」
「えぇ。
何しろ個人相手ですのでね。慎重に行かないと」
「でも、その会社だということはわかってるんですよね」
「これをそのまま賠償請求したとすれば、それは到底、個人で払える額ではないのです。イメージとして、逆に我々が悪者になってしまいかねません。
我々にも、工事の内容をきちんとチェックしなかった、虚偽の報告を真に受けてしまった、という落ち度がある訳ですし、そうしたことを織り込んだ上で、訴訟を起こさない、我々がかぶる、ということもありえます」
「なるほど」
どうぞ、とお茶を勧める。ここまでの説明に問題はないはずだ。普通の人間なら「アスベスト」と言うだけで納得する。現実にアスベストは使われていたのだから、確認に来られても困らない。勿論、専門家が見れば、使われているアスベストの量に比べて作業期間が長すぎる、ということには気づくだろうが、念には念を入れて全施設を調べ直さなければならない、という口実も用意してある。
(客室内になかったのは全く幸運だったな。大騒ぎになっていたところだ)
「質問を続けてください」
「は?」
「アスベストのためにわざわざいらっしゃったのですか?」
年配のほうが頭をかく。
「実は、地下の振動について苦情が来てましてね」
「振動ですか」
「結構な回数なんです。
それは役場のほうに言ってくれ、と言ってるんですが、どうにも減りませんで。
まぁ、我々も無視するわけにはいかないもんですから」
「アリバイを用意するため、というわけですか」
「キツいことをおっしゃる」
笑う。
「これはさすがに相手にはしてませんが、あの立てこもり事件とつなげて、幽霊じゃないか、なんて本気で言ってくる人もいましてね」
「……。
死者が出ましたか。あの事件は」
「いえいえ。お宅の社員の方のおかげで、高校生は無事に救出されましたし、その方も軽い怪我で済みました。その点はまったく感謝しております。
いや、年寄りなんですがね。土地の祟りだとか何とか。だから、あそこにホテルを建てるのは反対だった、とか、祟りのせいであんまり客も入らなかった、とか――あ、これは失礼」
最後のは皮肉か。どうでもいいが。
「地下の施設を作業してますのでね……。
細心の注意を払ってはいますが、振動を完全になくすのは無理です。それに、一応、基準値は守らせているのですが」
町役場の担当者と同じやり取りを繰り返す。尤も、彼らは「祟り」のことなど口にせず、きわめて役人的な話ではあったが。
「夜間もですか」
「えぇ。作業は早く終わらせたいものですから。アスベストの件で遅れてもいますし。
建物が古いので、作業そのものを慎重にせざるを得ないのですよ。かと言って時間が無限にあるわけではないので、やむを得ず昼夜兼行、ということになります。夜間作業をすると費用がかかるのですけどね。
苦情を言ってくるのはどういう方ですか。あの辺に人は住んでないはずですが」
「夏場はキャンパーもいましたし」
「……。
あぁ、ちょっと先にキャンプ施設だった広場がありましたね」
「えぇ。町営キャンプ場だったところです。ほったらかしになってはいますが、広場は広場なので、キャンプはできます」
「それほど多くの利用者がいるとは思いませんでした。不勉強でしたね」
「離れたところからも時々、言われるんです」
今度は若い方。
「場所はわかりますか?」
「いえ、今はちょっと。
それに、名前までは。個人情報ですし」
「あぁ、そういう意味ではないんです。
ホテルとは言っても、つまりはビルですから、地盤のことは調査しました。大体の地域がわかれば、地盤の関係かどうか確認できる、と思ったんですがね」
「あぁ、そういうことで」
「もし、その方々とお話しになることがあったら、あのホテルを建築していた当時もそうだったかどうか、聞いてみていただけますか。何件か苦情をいただいていた、という記録を読んだことがありますので、それはないとは言えないと思います。
工事に関する苦情は我々のほうに直接いただければ、皆さんのお手を煩わすことはないのですけどね。
看板をもうすこし目立たせたほうがいいのかな……」
「そうしていただけると助かりますが」
「後でかまいませんので、大まかな地域だけでも教えていただけませんか。我々のほうで地区ごとにご挨拶に伺うこともできますし」
これは短くて済んだ。役場はさまざまな資料を広げて数値での回答を要求してきたが、警察のほうは大まかな方向を提示しただけで引き下がった。本当に、体裁のために来たらしい。何か別の事件の捜査のついでだったのではないか。
五時を過ぎている。
「お疲れ様でした」
鵜川が茶碗を下げに応接室にやってきた。
「やはり工事の体制を見直す必要がある。
振動が地盤を伝わって、遠いところから苦情が来ているらしい」
「建築当時の資料に基づいてやっているのですが」
「その資料が信用できないものだった、という可能性は高いぞ」
「そうですね。ほかの資料とつき合わせたつもりでしたが、甘かったようです」
「今のところスケジュール通りだと言ったな」
「はい」
「では、深夜の工事をとりあえず停止しろ」
「しかし」
「いや、役場だけならいいが、警察が首を突っ込んでくると面倒だ。トラブルは最小化しなければならない。その間に、地盤の確認と、今、苦情を言ってきている連中へのあいさつ回りをやって、その後で再開だ。
一週間後を目処にしよう」
「承知しました」
中村は、どうやら鵜川のミスで起こったことらしいのに、全く責める様子が無かった。
「システム部の打ち合わせはもう無理だろうな」
「そうですね……。聞いてみましょうか」
「いや、いい。
連中も、猶予を貰って喜んでいるところだろう」
「はい。遅れ気味なので、この予定変更は喜んで活用する、というようなことを言っていました」
「だろうな。それでいい。
そうだ、ウデマ」
「……。
は、カザナ様」
中村と鵜川は妙な響きの単語を口にした。それはどうやらお互いの名前らしかった。
「さっきの刑事が面白いことを言っていた。
あのホテルには幽霊がいるらしい」
「幽霊でございますか」
「我々が探している幽霊の正体はわかったか」
鵜川、いや、ウデマは、その意味を察して笑った。
「先日、居場所をつきとめたところです」
「何者だ?」
「それは、まだ」
「ボウテールの者であることに間違いはないのだな」
「はい。それは確かでございます」
「外見は自由に変えられるからな。正体を突き止めるのは急がなければならないぞ」
「は」
「単なる旅行者ならいいが、ボウテールの警察だったりすると困る」
「急がせます」
「それで、どこにいたのだ」
「晴嶺学園に高校生としてもぐりこんでいました」
「……。
あのとき、修学旅行に来ていた学校か。
なんだって女子高校生などに化けた?」
「調査中ですが……」
「まぁいい。
問題は、何者か、ということの方だ」
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