コズメアをクレードルにセットする。シャワーは後回しだ。あのバッジが気になってしょうがない。
リリィがクレードルのボタンを押すと、クレードルの前のテーブルに小さな四角がいくつも並んだ。その四角を狙うようにして指を動かす。それはどうやらコンピュータのキーボードに相当するものらしい。指を動かす速さを見れば、いつものように空中にボタンを浮かび上がらせる方法ではまどろっこしいと思ったようだ。
光のキーボードの横に円が描かれる。リリィはそこに拾ってきたバッジを置いた。そして、大き目の四角を叩く。
数秒後に反応があった。
「エゴロス……?」
それは、観光開発事業を行っている大企業の名前である。次々と新しい観光地を開拓していくことで有名だった。
新規開発が続いて、それをきちんと運営していけるのか、という心配は、エゴロスに関しては無意味だった。この会社は、採算性の悪化した観光地を直ちに切り捨てることでも有名だった。
エゴロスが開発した観光地は確かに、すぐに話題になり、多くの人を集め、収益性もよく、土地を持っている人や自治体からは歓迎されることも多いのだが、そうして捨てられるところも多い。エゴロスが通った後は、エゴロスが来る前と同じ原野になる、と言われていた。誘致してもしなくても数年後には同じことになる、という意味のジョークである。
そのエゴロスのバッジがなぜこんなところにあるのだろう。あの男は、エゴロスの社員なのか? まさか、皐月観光開発はエゴロスの子会社か何かなのか?
リリィは両手を握り締めた。かすかに震えたような気がした。
まだ混乱しているらしい。考えが全くまとまらない。リリィはキッチンに行き、冷蔵庫からジュースのボトルを取り出した。一気に飲み干す。ボトルはシンクに放り投げる。洗うのは後だ。
「あ痛」
その動作で腕に痛みが走る。やはり、あの蹴りを受け止めたのは無茶だったようだ。
「なんだってあんなに強い――」
そのままの姿勢で止まる。立ち尽くすリリィ。視線だけがあちこちに飛ぶ。
「まさか」
リビングに戻る。解析結果の表示を解除して、また慌しくキーを叩く。今度は空中に文字が流れていく。
「やっぱり」
独り言からも力が抜けている。
「あいつも、持ってるんだ」
亜矢や真美と別れた後、隣の駅でコズメアが反応して鵜川に監視されていることに気づいた。よく検知できたものだ、と思ったがそれも当然。鵜川もコズメアを持っている。あれは、リリィのコズメアがほかのコズメアを検知したからだ。その対象者を照合したところ、リリィが登録したデータに一致した、という記録が残っていた。
どういうことだ。いや、考えるまでもない。鵜川がコズメアを持っているとしたら理由はひとつしかない。
「そうか。
向こう脛も」
ピースがはまっていく。
鵜川は、リリィと同じボウテールの人間なのだ。
あの強さは、コズメアでフィンゼ解除したからだと考えれば説明がつく。そして、向こう脛が弱点でないのは、鵜川が地球人ではないからだ。
「そうか。
そうだったんだ」
深呼吸。
それはいい。地球に複数のボウテール人がいる、というだけのことだ。
だが、そのボウテール人がなぜ皐月観光開発の専務秘書をやっていて、なぜリリィを目の敵にするのだ。
「ちょっと待ってよ」
子会社かどうかはわからない。いや、地球とボウテールとは、そんな提携ができるような関係ではないはずだ。皐月観光開発にエゴロスがひそかに入り込んでいる、と考えるべきだ。
その目的は、地球の観光開発。
おそらく、例によって強引な手法を使うつもりだろう。
だから、エゴロスの悪い評判を知っているボウテール人であるリリィがそのまわりをうろうろするのは都合が悪い。そういうことに違いない。
鵜川が、リリィを殺す気がないらしいこともそれでわかった。観光に来た地球でチンピラに絡まれて怪我をして帰国、そういう話にするつもりだったのだろう。だがコズメアを持っているリリィをちょうどよく怪我させるのはそう容易なことではない。だから鵜川本人が出てきている。
知らなくていいことを知っていて、知っているべきことを知らない、というのはこのことだった。
どうやら、剣呑なことに首を突っ込んでしまったらしい。旅行中だと思って気を抜きすぎたか。恋する乙女らしからぬ悪態が口をつく。
「大体、あの記者が」
記者がアスベストを追っていたのだとして、そういう後への影響を考えない工事は確かにエゴロスのやり方と一致する。あるいはリリィは、あのホテルに関わったことで目をつけられるようになったのかもしれない。
だが、何かひっかかる。説明がついているようでついていない気がする。どこかが不自然だ。
いや、考えないほうがいい、とリリィは頭を振った。
はっきりしているのは、彼女がエゴロスの開発事業を妨害している、と思われているということだ。そう思われている限り、鵜川の襲撃という形で警告は続く。大人しくするべきだ。その不自然さの原因を探ろうなどと考えるべきではない。
「帰る……?」
休暇はまだ残っているが、観光地などどこにでもある。ここに来るときに利用した旅行会社は融通が利くし、幸い、エゴロスとの資本関係はない。
だが、地球を離れれば、大崎とは会えなくなるわけだ。
地球人の時間感覚では、半年もあれば関係を相当に進展させることができるはずだ、と思ってアプローチを続けてきたが、大崎は一向にその気にならない。そのことにはまだ努力の余地があるとしても、ここでボウテールに帰る、ということになると。
「嫌だ……」
大崎がリリィに振り向いてくれれば、すべてを説明して、なんらかの方法で打開することは出来る。知られていない、というだけで、友人になり、あるいは恋人になって、地球と他の惑星を行き来する、ということは決して稀な例ではない。そのはるか手前の段階で、自分のミスが原因で、帰るというのは我慢できない。
「嫌だよ。
大崎さん」
リリィは携帯電話を手に取った。
大崎の番号をディスプレイに呼び出す。
だが、通話ボタンが押せない。
今、大崎の声を聞いたら、いきなり泣き出しそうな気がする。そんなことをしたら嫌われる。大崎の前では可愛い女子高校生、泣いたりするのはもっと近くなってからだ。そうやって無理やりに振り向かせるのは、大人のやることではない。
リリィは何度か誘惑に負けそうになった後、三度目で携帯電話を置いた。
勿論、かかってくれば、すぐに飛びついてしまうのだろう、とは思いながら。
リリィはコズメアを確認したが、何も反応はない。
ということは、あの人影もボウテール人ではない、ということだ。
鵜川は地球人を使うことにしたのだろう。それも当然か。バッジを落としたことには気づいているだろうし、だとすればリリィが事情を察しているに違いない、と想像するのも当然。これ以上、鵜川自身が手を下すようなことがあれば、リリィがボウテールの警察に通報する口実を与えてしまうことになる。
リリィは二度襲われているのだし、鵜川は地球人をも襲っているのだから、それだけでも通報する理由にはなるが、その後の話になると彼女の分が悪い。向こうは大企業で影響力もあるし、有能な弁護士も揃えているだろう。一方、リリィは記者から大崎の記憶を消してしまったから、記者から話を聞けたとしてもその証拠能力が問われてしまう。
リリィは学校に向かって歩きながら指を折って数えた。リリィの記憶操作は二度。回数も規定の範囲内だし、どちらも、自分が事件に巻き込まれた後だから、罪に問われることはないはずだ。
(巻き込まれた、って解釈には問題あるかもしれないなぁ)
しかし、どちらも地球人を助けるためだったのだし、なんとかなるだろう。そのくらいの説得はできる。
むしろ問題になるのは、ここ数日、ずっとリリィを尾けている男達の方だ。さすがに学校には入ってこないし、マンションに侵入しようとしているわけでもない。リリィを心理的に圧迫するのが目的なのだろう。コズメアを持ったリリィに勝てる地球人はそうはいないだろうから、彼らは襲ってはこないと考えていい。尤も、そういうことになっても地球の警察に通報すればいいのだ。もし、あの男達の口から皐月観光開発の名前が出れば困るだろうから、それは逆に鵜川にとってネックだと言える。
だが、それはいつまで続くのだろう。向こうが、リリィはエゴロスの観光開発事業を邪魔する意志があるわけではない、と認識するまで、か。
あるいは。
(私が帰るまで)
リリィ、いや、リリ・シュペア・リステラの特別休暇は終わりに近づいている。
「おっはよ!」
背中を強く叩かれる。
「通学路で立ち止まってんじゃないよ。
それとも足腰に来ちゃってるのかぁ?」
亜矢だった。
「どした」
返事をしないリリィの顔を覗き込む。
「オッチャンと喧嘩でもしたのか」
「してない……」
喧嘩なんかさせてくれない。この数ヶ月、リリィが一方的に誘うだけで、全く進展していない。
(諦めたほうがいいのかな)
早く見切りをつけて、休暇の残りを別の有意義なことに使ったほうがいいのだろうか。
「おい、朝っぱらからしょっぱい顔してんじゃねぇよ」
亜矢はリリィの手を引っ張った。
「遅刻すんぞ」
そのままグイグイと引っ張っていく。リリィの靴がバタバタと鳴った。
乱暴だが、手のひらからはぬくもりが伝わってきた。彼女は彼女なりに慰めようとしてくれている。それはわかる。
「おはよう。
どうしたの、手なんかつないじゃって」
真美だ。
「なんか、このオバチャン、もう足腰に来ちゃってるらしいからさ。
手を引いてあげないとダメらしいよ」
「そうなんだ。
じゃ、押したげる」
真美が背中を押しはじめる。
「行くよー」
「よーっし」
「ちょ、ちょっと」
三人のスピードはどんどんと上がっていく。声も出る。それはやがて悲鳴に近いものに変わった。
一時だけ、リリィにも笑顔が戻った。
それは本当に一時だけだった。
帰り道では、尾行は二人になった。
それはつまり、事態が、彼女が思っているよりも深刻な状態にある、ということだった。鵜川は、どうしてもリリィを遠ざけたいのに違いない。事業を妨害するつもりがないことが確認されるまで待つ気はないのだろう。
亜矢や真美と別れた後、電車を乗り継いでいつもとは違う駅で降りた。買い物があるようなふりであちこちを周り、別の路線の駅に出る。尾行者はちゃんとついてきていた。
マンションを知られている以上、撒いても意味はないのだが、彼らを連れて戻る気にはなれなかった。
時間は過ぎていく。
食欲があったわけではないが、何も食べないままでいい、という状況だとも思えなかった。また別の駅にあるコーヒースタンドに入る。リリィがパイを頬張っている間、彼らは道路の向こう側で新聞を読んでいた。地球では、今どき、街頭で新聞を読む者などいないというのに。
カップが空になっても居座り続けるリリィ。
七時を過ぎている。どこに行けばいい。
駅を変えるか。都心のターミナルなら人ごみに紛れることはできるかもしれない。
だがそれは、尾行に気づいている、ということを知らせることになる。そのリスクは。
いや、気にする必要はない。向こうは、密かに尾行しているつもりはないのだ。尾行に気づいて反応する、というのはむしろ、プレッシャーを与えることに成功している、という証拠にもなる。逆に、プレッシャーを弱めるきっかけになりはしないだろうか。
(無理だろうな)
疲れているのかもしれない。あるいは、本当に鵜川の圧力が効いているのかもしれなかった。
リリィの中で、色々なことがどうでもよくなり始めていた。
帰った方がいいんじゃないか?
このままではエゴロスのやることがエスカレートしたりはしないか?
なんで観光旅行に来てこんな不愉快な思いをしなければならない? なんのための休暇だ?
こんな休暇なら、今すぐ帰って仕事に戻ったほうがずっと平穏なのじゃないか?
そう言えば、仕事のことでメールが二度、来ていた。休暇中なのに、と思って、追伸に「コンサル料金、高くつくよ」などと付け加えてしまったが、あの案件はどうなったのだろう。相談の追加がないということは、あのアイディアで上手く進んでいる、ということだろうか。
そうだ。休暇ももう七割位を過ぎたところだ。途中返上すれば残りの三割はなくなってしまうが、なくなって惜しいほどの期間でもない。その三割に自分の身の安全をかける価値はあるか?
リリィはため息をついた。
あとで空席の状況を確認してみることにしよう。明後日では困るが、数週間くらいであれば、捨てる分も休暇として使う分もちょうどいいあたりだろう。
席を立ち、店を出る。
結論は出掛かっているようだが、明るい気分にはなれないし、重荷が消えたということでもない。リリィは彼女らしくないゆっくりとした足取りで駅に戻った。
「……?」
さほど大きくないこの駅でもバス乗り場とタクシー乗り場はちゃんとある。退勤のピークは過ぎているはずだが、まだ人も多い。
リリィはわずかに眉をひそめた。どことなく違和感がある。なんだろう。確かに、この駅に降りたのは初めてだが、何か、普通とは違う光景を見ている、という気がする。
立ち止まらずに歩く。その疑問が何かわからないのに、尾行者の関心を引きたくない。
(なんなの……。
!)
わかった。それはとても重要なことだった。
リリィはそのスピードのまま歩き続け、タクシー乗り場でドアを開けているタクシーの横に来ると、ふいにその中に飛び込んだ。
「出して!」
「え?
あんた、何ですか、一体」
「ストーカーがいるの。
早く!」
「ストーカー!
よし、わかった」
初老の運転手はドアを閉めると、タイヤを鳴らしそうな勢いで発進させた。
振り向くリリィ。
尾行者たちはそこであたりを見回し、地団駄を踏んでいる。
「あったりぃ」
その違和感は、タクシーが一台しかいない、ということだった。まだ七時台で人の行き来もあるというのに一台だけ。配車の都合でたまたまそうなっただけなのだろうが、それは確かに不自然だった。
そして、一台だけということは、歩いている尾行者を振り切ることができる、ということだ。
「あの二人組かい」
「そうなんです。
もうしつこくって」
「最近、変なのが多いって言うからねぇ。
警察とかに相談したほうがいいよ」
「そうします」
「それで、どこに行くかね。
なんならこの先に警察署があるから、そこに行くかい?」
「いや、それは」
気持ちはありがたいが、気持ちだけでいい。
「そうだな……」
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