タクシーを降りる。運転手は、突然のことでしばらくメーターを倒さずに走ったというのに、小銭の分はおまけしてくれた。
「いいかい。できるだけ早く警察に行くんだよ」
「はい。
ありがとうございます」
アパートを見上げる。明かりはついていた。
一瞬、躊躇する。こんな時間に来たら驚かれるのは間違いない。
でもしょうがない。タクシーの中で浮かんだのは、彼の顔だけだった。
呼び鈴を押す。
足跡が聞こえる。それが止まったのは、覗き穴から見ているからに違いない。次に聞こえたのは、え、という声。
鍵が外れて、ドアが開いた。
「どうしたんだ……」
「へへ……」
大崎さんって困惑する顔も可愛いのよね、とリリィは思ったが。
「へへ、じゃないだろ。
今何時だと思ってるんだよ」
「8 時……過ぎちゃったね」
「過ぎちゃった、って……」
これは、可愛いなどと言っている場合ではないかもしれない。ちょっと怒っているような気がする。確かに、女子高校生が訪問してくるにしては遅すぎる時間だったか。
「あ、あの。
ちょっと近くまで来たから……って思って。
ごめんなさい。
出直します」
「待てよ」
「ううん、いいの。
じゃ」
「送ってくから。
ちょっと休んでけ」
「いいの?」
「来ちゃったもんはしょうがないだろう」
「ごめんなさい」
「いいから入れって。
俺だってジャージのままじゃ外には出らんないんだから」
中には入ったものの、リリィは玄関の前に立っていた。
やはり怒っている。失敗だった。
そもそも、ここに来てどうするつもりだったのか。
尾行され怯えてここに来たのはその通りだが、その尾行者が、大崎の会社で専務秘書をやっている人間が雇った者だ、などとは言えない。
「いつまでそこに立ってるんだぁ?」
大崎は、玄関の横にあるキッチンでコーヒーメーカーをセットしていた。
「ここは立ち飲み屋じゃないぞ」
「……え?」
「立ったままコーヒーを飲むつもりか、って聞いたんだ」
「でも。
大崎さん、怒ってるから」
わずかに舌を出す大崎。
「ばれてたか」
「ごめんなさい」
「じゃ、非常識な時間だという自覚はあるわけだな」
「ごめんなさい」
「じゃ、それでいい。
反省はしてるだろ」
「ごめんなさい」
「はい、終了。
上がりたまえ。
それほど汚くないと思う」
「お邪魔……します」
大崎が促すので奥の和室へ。
テーブルの上には本が広げられていた。
「仕事?」
「厳密には仕事じゃないけど、仕事絡みではあるな」
カップを乗せる場所はない。大崎はカップを畳の上に置き、テーブルの上を片付け始めた。
「本当は、会社の資料を持ってきて読みたいところなんだけど、最近は機密保持だなんだって厳しいから、本屋で関係ありそうなのを買ってきて読んでおく、ってことしかできないんだよな」
「邪魔しちゃった……」
「いいよ。
そろそろやめようと思ってたところだから」
「ごめんなさい」
大崎は、リリィの前にカップを置いた。トン、と音がする。
「何があった」
「何、って」
「何かあったんだろ」
「別に……」
「嘘つけ。
いつも自分のペースで俺を振り回す小田リリィが、さっきから『ごめんなさい』を連発してる。
普通じゃない」
「それは、こんな時間に来ちゃって、迷惑かけたから」
「本当にそれだけか?」
「……」
うつむく。
胸の奥から、話してしまえ、という声がする。
今がそのチャンスだ。
「お返事は?」
だが、なんと説明する。私は、大崎さんの会社の人に追われています。その人は地球人ではありません。いや、それも含めてすべて、か。私も地球人ではありません。信じてもらえるだろうか。
コズメアを見せればいいのかもしれない。あれが地球の技術では作ることのできない高性能ツールだ、ということが理解されれば。
大崎はどうするだろう。それを信じてもらえたとして、リリィのことをどう思うだろう。現在の地球の状況、そして地球人の意識から考えれば、そこをうまくやらなければ、化け物扱いされてしまう可能性は高い。大崎は表立ってはそんなことはしないだろうが、気持ちの奥のほうはどうだろう。「宇宙人」が自分の部屋にいる、ということをきちんと受け入れられるのだろうか。
(私のことは……?)
リリィは、自分に覚悟ができていなかったことを悟った。
色々なこと、エゴロスのこと、それが大崎の会社に入り込んでいること、彼女は敵視されているらしいこと、そういうことは瑣末なことだった。
一番の問題は、大崎がリリィを受け入れてくるかどうか、ということだった。それが一番重要なことなのに、リリィにはその準備ができていない。その準備をしてこなかった。
今のままではおそらく、リリィはふられることになるだろう。彼女はふいにその別れ道に立たされてしまった。
「無理にとは言わないけどさ」
「……ごめんなさい」
その言葉は逆に大崎を再び苛立たせることになったようだった。うつむいたままのリリィにも、大崎の視線が鋭くなったらしいことはわかった。
「このままだと俺は、小田リリィは夜の 8 時すぎまで遊び歩いている、っていう印象を持ってしまうぞ」
「え」
顔を上げるリリィ。大崎は黙っていた。黙ってリリィを見ている。
「そういう生活に慣れてるんだったら、俺がわざわざ送っていく必要もないよな」
「ちが――」
「違うのか?」
「……」
リリィは目を閉じた。まずい。どんどんまずい方向に進んでいる。何か言わなければ。このままでは完全に嫌われてしまう。嘘をつかずに、これ以上、問題を起こさないようにするには何を言えばいい。何を。
「じゃ、もういいな」
「尾けられてたの!」
悲鳴になりそうだったが、なんとか押さえ込むことができた。
「尾けられてた?」
「学校が終わって、電車に乗ったあたりから、ずっと。
それで、いつもと違う路線に乗り換えて、なんとかして撒こうと思って。
それで、ずっと、今まで」
「誰に」
「わからない。
男の人」
大崎は急に立ち上がり、カーテンの隙間から外を見た。
「あの、さっき、タクシーに乗って来たから。今はいないと思う」
「そうか……」
大崎は背中を向けたまま外を見ている。
「いつからだ」
「わからない」
「気がついたのが今日、ってことか」
「うん……」
リリィは嘘をついている。どこまで話せばいいのかまだわからない。ひょっとしたら、後になって取り返しのつかないことになってしまうのかもしれなかったが、ここですべてを話したら、一気に事態が進んでしまいかねない。今は、わからない、と言っておいたほうがいい、と思った。
「誰かに話したか」
「まだ」
「警察に相談したほうがいいかもしれないな」
「タクシーの運転手さんにも言われた……」
「そうか」
「ごめんなさい」
またうつむく。
「今はとりあえず、それ飲んで落ち着くんだ。
しばらく時間を置いたほうがいいかもしれないな」
「時間を置く、って」
「小田リリィの『ごめんなさい』が収まるまで」
「はい……」
「いいお返事だ」
そういう意味ではない。追われているのなら時間を置いても無意味、むしろ悪くなることのほうが多いのではないかと思ったのだが、大崎は勘違いしたらしい。だが、リリィは黙っていた。大崎の優しさがあふれ出している勘違いに浸っていたい。
二人はしばらく黙っていた。時折、リリィがコーヒーをすする音だけがする。
大崎は立ち上がると、押入れを開けた。リリィを送っていくときに着る服を出そうとしたらしい。そこで動きが止まったようだった。
「なぁ……」
「え?」
「これ、変な意味じゃないんだけどさ」
「うん」
「泊まってくか?」
「……。
え?」
「いや、だからさ。
ここで、俺が送っていくにしても、夜中に出歩くのはまずいのかなって。
ひょっとしたらマンションも知られちゃってるかもしれないし」
リリィは答えなかった。頭が追いついていない。それくらい、予想外の話だった。
「うそ。
いいの?
あたし、ここに泊まって」
「だから、変な話じゃないって言ってるだろう!」
「ううん。
大歓迎」
「はしたないことを言うな!」
大崎が怒鳴る。
リリィは笑い始めた。
「お前、俺をからかったな」
「だぁって、うれしかったんだもん。
大崎さんと一つ屋根の下で眠れるなんて」
そんな急展開は期待していない。
だが、今の大崎は、本当にリリィのことを心配している。だから、先回りして前置きした上で、そういう提案をしてきたのだ。それは本当にうれしい。やっぱり大崎さんだ、と思った。
だから、いつものリリィに戻ることにしたのだ。マイペースで大人を振り回す女子高校生に。
まずは大きな前進だ。
今夜、何もなくても――ないだろうということは断言してもいいが――これで大崎がリリィを強く意識してくれれば願ったりかなったりだ。欲張ってはいけない。
勿論、そうなればそうなったほうがうれしいのだが。
「ね、一緒に出ちゃって大丈夫なの? ご近所とか」
「大丈夫だろ。
後ろ暗いところないし」
「惜しいことしたね」
「だから、そういうのはやめなさいって!」
鍵をかけながら言う大崎。
ひょっとして大崎は女子高校生に幻想を持っているのだろうか、とリリィは思った。亜矢は確かに見かけと違って男性との付き合いはないようだし、真美は見たとおりだが、ほかのクラスメート達は常に恋人やそうでない別の男性の話ばかりしているような気がする。やはり、女子高校生――というか、未成年のメスの生態は地球とボウテールとでは相当に違うらしい。大崎のようなタイプはボウテールで暮らしたほうがいいのかもしれない。
リリィは、ここが女の子らしさの見せ所、と早起きしたのだが、大崎のキッチンには材料が何もなかった。道具しかない。空っぽの冷蔵庫は久しぶりに見た。そのときは、自分のものだったが。
大崎は仕事が忙しいから、と言い訳をした。それは単なる言い訳ではなく、確かにここのところ、リリィがデートの約束を取り付けようとしてもなかなか時間が取れなかったのは事実である。三食とも外食らしい。
「体に悪いよ」
「しょうがないだろ。
作ったりしてる時間ないの。
昨日は本当に久しぶりに一時間残業だったんだから」
「仕事の本、読んでたくせに」
「会社にいるよりはましだよ」
「ね、あたしが作ってあげる。
そしたら大崎さんは上げ膳据え膳」
「何時に帰れるのかわからないのにそんなことできない」
「合鍵くれれば作っとく。
電子レンジで温めればいいようにしとくから」
「だーめ」
それは予想のうち。
「心配してるのになぁ」
「お気持ちだけで結構です。
この忙しさだって、あと一ヶ月くらいだし。そこまで乗り切れば」
「また遊びに行ける?」
「俺の健康を心配してたんじゃなかったのか」
「だから、お料理しますってば」
今日のリリィは舌が軽やかに回る。気分が切り替わっているせいだろう。昨日の自分がまるで他人のように思える。
「あーあ、着いちゃった」
駅に着いてしまった。二人の電車は反対方向である。
「今日の帰りに絶対に警察に行くこと。
いいな」
「はい」
「じゃ。
十分に気をつけて」
「はい。
大崎さんも」
「何が」
「合鍵ができたら教えてね」
「作りません」
「いってらっしゃーい」
大崎は肩をすくめた。
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