「待て」
鋭い声。男は部下がデータを表示するのを止めた。
「うむ…」
正面のスクリーンに映し出されているデータを幾分、前に戻させる。こめかみに手を当てながら考えている。
「そうか。
ここに設計の変更を加える必要がある。さっきの仮定は破棄する」
「はい」
「続けたまえ」
まるで白衣のような衣装。色は暗い緑色だが、その姿を見る限り、彼は科学者のようだった。だが、その衣装にはさまざまな突起や、どのような意味があるのかわからない装飾がある。
背後のドアが開いた。男は、その気配に小さく笑った。
「だいぶ不機嫌のようだな、リダ」
「あ、これは、失礼をいたしました。マスター・バシュトワル」
それがこの男の名前だった。
“ips”のリーダー、マスター・バシュトワル。
「選考が進まないのか」
「箸にも棒にもかかりません」
また笑うバシュトワル。
この、上官に向かって不機嫌さを隠そうともしない女は、リダ・ローダ。バシュトワルの副官だが、そのシルエットはどうやら軍服である。小さなマントも身に着けているところは、どう見ても科学者ではない。
「まったく、人間というは、なぜこうも」
「リダ、お前も私も人間だ。それを忘れてはならない」
「しかし」
リダは反論しようとしたが、すぐに口をつぐんだ。これまで、何度も言われていることだった。
「そこも、さっきと同じだ。設計を変更する」
バシュトワルの指示が飛んだ。
「私は、少なくとも、奴らとは」
「そこから踏み出したことは厳然たる事実。それは、偉大な一歩だ。
ほとんどの人間はそれができない」
「ですから」
「だが、自分が優れた人間だと本当に信じている者も、それほど多くはない。
それから目を逸らしているのは確かだが、自分が真実から目を逸らしている、ということには多くの人間が気づいている。
そして、その一部が、我ら“ips”の理想の元に集まってきているのだ」
「…」
「人は育てねば育たない。
お前のように、自ら育つことができる者は、むしろ例外だ」
「過分の…お言葉でございます」
「今、目覚めたばかりの者達だ。一人で歩けることを期待してはならない。
それは、お前の役割だ、リダ・ローダ」
「はい」
「今は、どの段階だ」
「一次選考をボイズに任せてまいりました」
「よいことだ。
一次選考を任せることができる者をお前は育てた。さらにその数を増やし、次には、その中から、お前の片腕となる者を育てていけばよい」
バシュトワルは、まるで娘を見るようなまなざしを注いだ後、またスクリーンに向き直った。
「“ips”の理想。
コスモスの真理に逆らわない、科学を唯一のよりどころとする、清新な世界を生み出すには、時間がかかる。
短気を起こしてはならない」
「肝に銘じます」
リダは深々と頭を下げた。
防衛軍の幹部は、情報管理部門の責任者を見た。彼は聞いたことのない名前だったらしい。
「知っているか」
「…はい」
「なんだと」
幹部が気色ばんだ。
「では、この“ips”という組織のことは」
「名前までは判明していませんでしたが…」
「掴んでいたのか!」
「は、はい」
「なぜその情報を上げてよこさなかった」
「まだ不確定なものだったからです。
確認作業の最中でした」
最後の言葉は小さく消えていった。とんだ恥さらしだ、と幹部はつぶやいた。
「続けてよろしいでしょうか」
「お願いします」
LLN――ラボ・ルナティックの代表、三枝美穂が呼ばれたのは、警視庁内の会議室だった。警察と防衛軍、政府から多くの重要人物が集まってきている。先日の事件に関するヒヤリングが行われているところである。
「島田善三博士が、r/i 光量子に関する論文を発表したのは、そのアルヴァイズ・バシュトワル博士がまさに同じ理論の論文の執筆に取り掛かったところでした」
「先を越されたわけか」
「だが、取り掛かると言っても、取り掛かってすぐにできるわけではないのだろう。相当に遅れていたことにはならないか」
「どうやらバシュトワル博士は、アイディアのレベルでは裏づけを持っていたようです。あとはそれを理論の形に纏め上げて、どう表現するか、どの媒体で発表するか、という段階だったと思われます。
おそらく数ヶ月の差。一年はないと思います」
「それで。
まさか逆恨み、ということではないのだろう」
「バシュトワル博士は、商業主義に原因を求めました」
「商業主義?」
「経済至上主義という言い方もしていたようですが」
防衛軍の情報管理担当者が口を挟んだが、さほど注目はされなかった。三枝は、敬意を表する形で、一度、頷き、話を続けた。
「研究には資金が必要です。
ですが、科学がその資金を生み出すことはあまりありません」
「特許収入というものがあるじゃないか」
「それは、売り物になる技術だけです。
なにか商品の元になるような技術でなければ、いくら登録しても特許収入は得られません」
「つまり、役に立たない研究というものがある、ということか」
防衛軍幹部は、科学者が気を悪くして当然の発言をしたが、三枝は気づかなかったように話を続けた。
「例えば、そうですね、洗剤を作っているメーカーがあるとします。
当然、そのメーカーは、汚れを効果的に落とすような物質の開発、あるいは発見には熱心です。
しかし、極端な言い方をすれば、新しく見つかった物質がなぜ汚れを落とすのか、ということはどうでもいいわけです。その探求にお金を出すかどうかはわかりません」
「なるほど」
「勿論、現在の消費者は、強力な洗剤には逆に警戒心を持ちますから、その理屈はきちんと説明できたほうがいいのですけど、安全だということが証明されれば、差し支えない、という判断もできますし。
いずれ、科学のすべての分野で、十分な研究費用がある、という状態ではない、ということは確かです。
そして、島田やバシュトワル博士、そして我々が携わっている、理論物理学、量子学といった分野は、人々の生活と関係が薄い、と考えられていますので、その傾向が強いと言えます」
「君達には、ファウンデーション・アポロンがある」
これは政府高官だった。道理で、よく知っている。
「はい。
LLN は幸い、中立的な立場で資金提供をしてくれる基金とめぐり合うことができましたが、さきほど申し上げたような、民間企業と提携する形をとる研究者も少なくはありません。
そうした場合、その企業の経営方針に左右されることになります」
「ふりまわされるわけか」
「多くの場合に、実用性の高い研究が要求され、しかも、短時間で結論を出さなければなりません。場合によっては、研究の中止、契約解除ということもあります。研究者の自主性は軽んじられることになります」
「アルヴァイズ・バシュトワル博士がそうだった、ということか」
「はい。
目先の利益にとらわれ、十分な裏づけも、深みのある研究もできない。
検証も不十分なうちに直ちに製品化され、副作用というべき事件がおきたりもする。公害問題と関連付ける形で、バシュトワル博士は、商業主義を否定し、科学をその上位におくべきだ、という考えを打ち出しました」
「科学を上位に?」
《おめでとう、諸君》
スクリーン上のマスター・バシュトワルが宣言した。
講堂であるらしいその部屋に並べられた百人ほどの人間たちは足をそろえ、姿勢を正した。服装はばらばらであった。
《この宇宙はシンプルな法則によって支配されている。
だが我々の社会は、あらゆる面でそれに逆らっている。
現在の目を覆うべき惨状は、その結果だ。
飢えも、病も、争いも、すべては、我々自身が生み出したものなのだ》
一呼吸。何人かは、我々が生み出した、という言葉に動揺していた。
《諸君に覚えておいて貰いたい。
『欲求』と『欲望』とは全く異なるものである、ということを》
また間を置く。
《『欲求』とは、生命体としての我々が、生きるために必要とするものを求めることだ。それはまったく自然なものであり、そこには一切の穢れもない。
だが『欲望』は違う。
それは、際限もなく、足るを知らぬ、人間だけが持つ、薄汚れた醜い感情だ。
『欲望』が『欲求』を凌駕したとき、それがすべての悲劇の始まりだった。
我々は、シンプルなルールに従い、その『欲望』を制御しなければならない。
そのシンプルなルールとは何か。我々は、いかにして宇宙、すなわち“Cosmos”のルールを知ることができるか》
全員の顔を見渡すように顔をめぐらせるバシュトワル。
《それが、科学だ》
「おそらく、『コスモスのルール』という言い方で、宗教的なものを感じた方もあるかと思いますが、それは言い回しの問題です。
この宇宙で起こるすべての事象は、量子、原子、分子、その組み合わせとしての物質によって引き起こされます。そのすべては計算可能だ、という考え方もあるくらいです。突き詰めていくと、非常に単純な法則に還元されていく、というのは事実です。
バシュトワル博士は、それを『コスモスのルール』という言葉で表現しているわけです」
「それは、まぁ、キャッチフレーズのようなものと理解することにして。
さっきの、科学を商業よりも上位に、ということについて解説してくれないか」
「その、宇宙空間を支配するルールを解き明かしていくのが科学です。その科学という学問を通して、我々の行動が、『コスモスのルール』に合致しているかどうかを判断していく、というのが、バシュトワル博士の考え方です」
理解しやすくなったようには思えない。誰も動かなかった。
「洗剤のたとえをもう少し使います。
洗浄能力の強い物質が新しく発見されたとします。それを使った商品を発売するには、その物質が、人間に害を与えないか、繊維を逆にいためたりはしないか、洗濯機の寿命が短くなったりはしないか、環境に対する負荷はどうか、ということを確認する必要があります。
そのことを確実にするには、その洗浄能力の源を解明しなければなりませんが、現実には、その解明作業はほどほどのところで打ち切られます」
「そうだろうな。
消費者が待っているし、ライバル企業に先を越されてしまうかもしれない」
「バシュトワル博士が言うのは、そうした事情を勘案するべきではない、ということです」
また黙る。
三枝は、ここが一つの山であることを知っていた。
「私には理解できるが」
政府高官が言った。それはそうだろう。だから、ips が力を持ってしまうのだ。
「その解明作業はいつ終わるかわかりません。百年かかるかもしれないんです」
「まさか」
「バシュトワル博士の言う、科学至上主義に倣えば、我々は新製品の洗剤を使うことはできません。
それは、我々の今の生活を否定することになるんです」
《それを恐れてはならない。
なぜか。
真実の探求をないがしろにし、眼前の利益にとらわれ、経済行為の奴隷となった研究開発は、我々の首を絞めることになるからだ。それは『研究』に値しない、悪魔の所業だ》
言葉は強くなっているが、バシュトワルは興奮した様子ではなかった。淡々と言葉をつないでいく。そのことが却って説得力を増しているようだった。
《これまで何度も繰り返されてきた。
便利な道具、高性能の機械、強力な薬品。
それが、我々の生活を豊かにするという惹句は偽りだった。それによって、人々は心の潤いを失い、この大地は汚染され、破壊され、もはや回復の見込めない状況にある。
人々のため、という美辞麗句の影に隠された、経済最優先、商業的反映、拝金主義が、人々の生活を餌食として成長し、この世界全体を覆う亡霊となって跋扈している。
科学は経済に陵辱されたのだ》
また静寂。
《だが、諸君。
君達は目覚めた。
望まぬこととはいえ、世界を廃墟とする手助けをしてしまったことを直視し、自らの過ちを正す勇気を得た。
あとは行動あるのみだ》
バシュトワルはそのとき初めて拳を天にかざした。
《何者をも破壊せず、奪わず、乱さず。
コスモスのルールに従い、一個のちっぽけな生命として正しく生存していくことこそが“ips”の目指すところだ。
コスモスのルールを垣間見るたった一つの言語である科学をこそ、我々はよりどころとしなければならない。
諸君、まさに科学こそが、世界を統べる規律なのだ!》
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