部屋の中にもう一つ部屋がある。
その部屋、つまり、我々が普通の感覚で「部屋」と呼んでいる部屋がそもそも広い。2DK 程度の広さは間違いなくある。キッチンこそないが、バスルームはあり、それが丸ごと一つの部屋なのだった。どこかの学校にはこれくらいの教室もあるのではないだろうか。
目を凝らせば、その壁にも柱にも、日の光が降り注いでいる窓にも丁寧な細工がされている。落ち着いた色合いである事は一目でわかるし、詳しい者が見れば、その材質も上等なものであることに気づくだろう。ときおり傷がついているのが見えるが、それは人が住んでいればそうなるのはやむをえないことである。まして、この部屋の主が老人ではなく、つい数年前までは「幼い」と形容されていたりしたこともあるという年齢であってみれば、むしろ当然のことかもしれない。
かすかに音がするのは、この大きな部屋の中にある小さな部屋の方からだった。プレハブとでも言えばいいのだろうか。小さな窓とドアがあるほかは、この部屋の雰囲気にそぐわない無機質な壁が四方を囲んでいる。それは、二畳程度の大きさの防音室である。漏れている音は、その中で弾いている楽器の音だった。
大きい方の部屋のドアが開いた。
ノックは先ほどから何度も繰り返されていたのだが、防音室に篭っていては聞こえる筈もない。ついに痺れを切らして入ってきたのは、初老に近い女性だった。こぎれいな格好ではあるが、エプロンをしていた。彼女は、いつもそうであるように最初に防音室に視線を投げ、そこに自分が呼びに来た相手を認めると、気づかれていないことがわかっているせいでもあろうか、乱暴な足取りで近づいた。
ノック。反応はない。
「お嬢様」
聞こえるわけがないとわかっていても声を出してしまう。母親ではないようだ。となると家政婦であろうか。
やむをえず彼女は、ドアの横にあるスイッチをパチパチと切り替えた。これで中の照明が点滅する。いくら演奏に熱中していても気がつかないわけがない、ということだった。
「弥帆 (みほ) お嬢様」
ガラス越しに視線が合う。中の少女は、演奏を邪魔され、あきらかに不機嫌な顔になった。切れ長の目がさらに細められると、長い髪とあいまってその印象が凄みを増す。
それでも、その女に罪はない、ということはわかるのだろう。彼女は楽器をスタンドに立てかけた。五弦ベースだった。道理で低い音ばかりが漏れているわけだった。
「なに」
ドアを開ける。不機嫌を音に変換したらこうなるだろう、という声だった。
「お父様がお呼びです」
「忙しいって言ってよ」
「大事なお話だとおっしゃっています」
「大事…ね」
頭をかくと長い髪が舞い踊った。
「お急ぎください」
「10 分」
「先ほどからお待ちですよ」
「この格好で行ったらゴチャゴチャ言われるでしょ」
家政婦は黙った。
T シャツを重ね、スリムなジーンズには穴が開いている。勿論、開けてあるのだ。あの音を出しているのだから、この格好でなくてはなるまい。
「では、できるだけお急ぎを」
「りょーかい」
弥帆と呼ばれた少女は、アンプのボリュームを下げたが、しばらく考えた後、電源を切った。簡単に終わる話ではないような気がした。
「っちーな」
夏場に狭い部屋に入っているのだから当然である。いくら空調を効かせても演奏に熱が入れば汗はかく。
T シャツを投げ捨ててジーンズをその上に放り投げる。弥帆は洋服ダンスの前で腕を組んだ。
「平日なら制服でいいんだけどな」
父親だって、彼女がどういう趣味かは知っている。今更、深窓のご令嬢の格好をして行っても白々しいだけだ。寧ろケンカを売ることになりかねない。かといって「ロック」な格好をしてわざわざ小言の種を増やす必要もない。
結局、いつもと同じ、白いブラウスと軽いパンツという組み合わせにした。「穏当」なところというわけだった。この服は、父親の前に出るときのために買ったようなものだな、と彼女は思った。
長い廊下を歩く。
子供の頃からこうだから違和感があるとは言わないが、広くて長い廊下がある家が普通だと思ったら大間違い、ということを知ったときから、この廊下が嫌いになった。
ドアの前に立つ。今日は何を言われるのだろう。
「弥帆です」
「入りなさい」
くぐもった声が聞こえた。
ドアを開けると、一番奥の机で父親が何かを読んでいた。
応接セットの横を過ぎてその机へ。
「今日は何か予定があるか」
「買い物に出かけるつもりだったけど」
嘘である。早く切り上げてもらう口実だ。
「急ぐのか」
「…。
別に」
前に、ここで「うん」と答えて、そんなに急いで買わなければならないものとは何だ、と問い詰められたことがある。引くしかあるまい。
「そうか。
すまないが、舟木さんのところに使いに行って欲しい」
「舟木…」
「舟木康孝さんだ。何度も行ったことがあるだろう」
なるほどね。弥帆は口の中で呟いた。
「舟木さんが探していた本が見つかったんだ。かなり熱心だったから一刻も早く届けたいと思ってな。
頼まれてくれるか」
関東フェニックスモーターズ販売株式会社の社長。数年前から、父親の話の中に頻繁に出てくるようになって来た名前だ。こういう形でよく使いに出されるが、そのたびに引き止められ、家人との世間話に付き合わされる。何度目かからは、長男が必ず同席するようになった。そこで弥帆も、こいつと結婚させられるのではないか、と気づいた。
それ以来、何かと理由を用意して断ってきたのだが、ここのところ話が出なかったのでその準備をしていなかった。迂闊だった。
「どうだ」
ミズシマ・スポーツ株式会社社長、水島征一。それが弥帆の父親である。背は高い方なのだがそう感じさせないのは押しが弱い印象のせいだ。勿論、これは印象に過ぎない。全国に名の通った企業の社長が、ひ弱な人間につとまるわけはなかった。怒鳴るときは怒鳴るし、逆に、その押しの弱さを誠実さに変えるという芝居で人の間に入り込んだりするところも見てきた。
金持ちは金持ち同士、群れたがるものらしい。車の販売とスポーツ用品メーカー。事業の範囲にはほとんど接点はないが、接点がないゆえに安全な縁組ということも言える。征一はどうやら弥帆が自分の事業に協力するようなタイプではない、と考えたのだろう。そういう形で使うことにしたのに違いない。
「その袋?」
「そうだ」
「これを届ければいいんだね」
「失礼のないようにするんだぞ」
いつだったか、やはり届け物をしたとき、それを玄関先で渡してすぐに帰ってきたことがあったが、家に戻ってから、相手が、お茶でも、と誘ったのを頑なに断るのは逆に失礼にあたる、とかでひどく怒られた。なんだか外堀が埋められていっているような気がする。このままではまずい。いずれ、きっぱりと断る必要がある、とは思っているのだが、征一が結婚の話をおくびにも出さないのでその機会がない。
「わかった」
いいことを思いついた。
排気音が後ろに流れていく
本当なら、こんな交通量の多い幹線道路をオートバイで走っても楽しくはないのだが、ベースの練習を邪魔された気晴らしくらいにはなる。
そしてこれは、舟木家に嫌われるには上手い手の筈だ。
車を扱う会社を経営しているからといって、車が好きだとは限らない。単なる商売道具としてしか見ていない人間だっている。舟木一家はその典型だった。別の言い方をすれば、嫌な金持ちなのだ。車は、売るものか、運転させるものかのどちらかなのである。社会人としてやむをえず免許証を持ってはいるが、自分達は運転しない。彼らの席は後部座席なのだ。
そこに、女だてらにオートバイを駆る高校生が革の上下のレーシング スーツでやってくるのだ。歓迎されるとは思えない。逆に説教されそうな気もしない事はないのだが、それはそれで一向に差し支えない、というか、願ったり叶ったりというところだった。
幹線を外れて高級住宅街へ。弥帆はわざとギアを落としてけたたましい音を上げた。
「え?」
そこを曲がれば門が見える、という角に差し掛かると、黄色と黒の車止めが置かれていた。何かの工事中らしい。見れば、確かにそのすぐ先に同じ色の枠が置いてあり、そこから作業服の男が出入りしているところだった。オートバイだから無理に通って通れないこともないが、彼らに停められて U ターンするのも面倒だ。弥帆はそこを曲がらずに直進した。
別に会いたいわけではないが、折角ここまで来たのに帰るのは癪だ。弥帆はその小路に反対側から入ってみようと思った。工事現場があそこだけなら、仮に車止めがあっても家には入れる筈だ。
また角に差し掛かる。やはり車止めはあったが、どういうわけか、その先には灰色のセダンが止まっている。軽自動車やワゴンならともかく、どう見ても工事用の車両ではない。
よく見ようと弥帆がオートバイを降りたのと、その門から男達が出てきたのとは同時だった。
先を行く背広の二人、それに挟まれているのは、舟木康孝だった。
手は腹の辺り。上にタオルか何かがかかっている。
その格好はテレビか何かで見たことがある。あれは、手錠を隠すためのものではなかったか。
(逮捕…されたってこと?)
あの会社、一体、何やったんだ、と思う。
舟木たちがそのセダンに乗り込む。その後ろから背の高い男が続いた。
(あ)
不謹慎ではある。だが、ロマンスグレイにはちょっと早い、というその男は弥帆の視線を捉えた。
「いい男…」
思わず口をついて出る。
知らずに身を乗り出していたのかもしれない。弥帆とその男の視線が合った、ような気がした。弥帆は慌てて身を隠した。
一斉に車のドアが閉まり、次に、エンジンをかける音。車は静かにスタートし、弥帆とは反対側の方へ進んだ。
舟木の頭が小さくなっていく。
間違いない。彼は逮捕されたのだ。
家に帰ってみると父の征一は外出していた。
「どこに行ったの?
警察?」
「いえ、懇親会ということでしたが」
家政婦の菊池が答えた。
「急いでた?」
「いえ、特にそういうことは」
不思議そうな家政婦をよそに弥帆は自分の部屋に戻った。預かった本の入った袋をベッドに放り投げる。
「やなもの見ちゃったよ」
征一は知らないままだったのだろうか。少なくとも弥帆を使いに出すときまでは知らなかった筈だが、その外出はどうだろう。いや、舟木が逮捕されたということが周囲に知れるまではもう少し時間がかかるもかもしれない。あるいは出先で耳にすることになるのか。
弥帆はベッドの足元にあるテレビのスイッチを入れた。時間がまずいのかスポーツ番組と娯楽番組ばかりでニュースはやっていない。舟木が何をしたのかは知らないが、臨時ニュースになるほどの有名人でもない筈だ。夕方を待つしかない。
「それにしても」
ここで騒いでもしょうがない、と決めると弥帆は落ち着きを取り戻した。となると、思い出すのはさっきの背の高い刑事だった。
「あの感じはなかなか出ないよな」
逮捕劇の最中で、厳しい表情になるのは当然。それが一層、あの刑事の魅力を引き立たせているように思えた。
「悪いけど、これであそことの結婚は無しだ」
無実の罪ということもないではないが、征一の会社は若者がメインユーザーのスポーツ用品を製造している。イメージは重要な問題の筈だ。そういうことに関わってしまった、というだけで結婚の線は消える。
弥帆のさきほどまでの鬱屈はもう影を潜めてしまった。
だがそれは翌朝、別の形を取って現れた。
やはり気になっているせいなのか、いつもより早く目が覚めた弥帆は、いつもなら避けて通るのに、父親がいるであろうキッチンへ降りていった。
「おはよう」
「珍しいこともあるもんだな」
嫌味を言ったのは長兄の方だった。本人は親しみを込めているつもりなのだろうが、弥帆がそう受け取る事はなかった。
座ると同時に出てきたコーヒーを口に運びながら弥帆は二人の表情を伺った。変わったところは見つからなかった。まだ知らないのだろうか。
一晩。それが、ある人物の逮捕というニュースが広まるのに短いのか長いのか弥帆にはわからない。だが、会社同士に資本関係はないにせよ、自分の娘を押し込もうと考えている家に起こった事件である。誰かが耳打ちしていそうなものだ。
「お前、本当に何かあったんじゃないのか」
「?」
兄だ。さっきと違って、この質問には嫌味は含まれていないようだった。
「ちゃんと朝食を摂るなんて、それこそ珍しい…」
弥帆は自分の前の皿を見た。気づかないうちにトーストを二枚と目玉焼きを平らげ、ヨーグルトに手を伸ばそうとしているところだった。
「…。
そういうこともあるよ」
「朝食をしっかり摂るのはいいことだ。私としては、それが習慣になってくれればいい、と思っているよ。
誠、私は先に行くぞ」
「はい、いってらっしゃい」
話は父がいなくなったところで途切れた。兄の誠は、短く「じゃな」と言うと出て行った。
それを見届けると弥帆は二人が置いていった新聞に飛びついた。立ったまま読み始める。
「ない…」
舟木の逮捕の件はどの新聞にも載っていない。小さな記事までチェックしたがどこにもなかった。
弥帆は自分の部屋に戻った。テレビをつける。朝のニュースの時間帯だったが、のどかで心温まる話題と天気予報ばかりである。しばらくチャンネルを切り替え続けたが、そんなニュースはなかった。
その販売会社は関東ローカルだが、親会社の自動車メーカーは全国企業だ。何をやったのか知らないが、社長が逮捕されたということがまったくニュースにならないとは思えない。
「なんなんだよ…」
学校に遅刻したのはそれが理由だったが、彼女の遅刻やエスケープは珍しいことではなかったので誰も気には留めなかった。
それはその夜になって更に別の形になった。
ベースを弾く気にもなれず、ベッドに寝転がってニュース番組を見ていると、ノックがあった。鍵を外してドアを開けると、父の征一だった。
「誠が驚くのも無理はないな。
お前が楽器を弾かないでニュースを見ているとは」
追い返す口実もないが、ここはいっそ聞いてみるべきだろうか、と弥帆は思った。その逡巡の間に、征一は中に入り、弥帆の机の上の袋を手に取った。昨日、預かったままの本だった。
「舟木さんには会えなかったのか」
「うん…」
「急なことでな」
やはりそうだった。弥帆はあいまいに返事をした。
「うん…」
「あれくらいの年になると、昨日まで元気だったのに突然、ということもある。
舟木さんの場合はそばに家族がいたからすぐに救急車を呼べたんだそうだが――」
「…。
え?!」
弥帆は伏せていた顔を上げた。
救急車?
「なんだ、知らなかったのか」
「救急車、って…」
「脳梗塞という奴だ。どうやら奇跡的に軽いものですんだらしいが、しばらくは入院が必要になるし、後遺症が残るかどうかは時間が経たないとはっきりしたことは言えないらしい。向こうの家もしばらくは大変だろうな」
弥帆は何も言えずに口だけを動かしていた。あれは救急車ではなく乗用車だったし、舟木は手錠をされてはいたが自分の足で歩いていた。
「お前もうすうすとは気づいてたんじゃないのか」
「な、何を」
声がひっくり返りそうになるのを抑えるのがやっとだった。
「私は、舟木さんの息子さんとお前が結婚してくれればいいと思っていた」
「そ…そっちの話」
「まっすぐに育ったいい青年で、舟木さん夫妻も自慢していたよ。
お前なら丁度いいと思って、ああやって使いに出したりしていたのだが…。こういうことがあってはしばらくは凍結だな」
弥帆は返事をしない。
ごまかそうとしているのか。いや、それをごまかして何の意味があるというのだ。隠すのなら、結婚させるつもりだった、というところだろう。それがつぶれたというのなら、病気と嘘をつくより、逮捕されてしまったことをはっきり言った方が話が早いではないか。
それに、そこを隠したところで、どうせニュースに――
(なってないんだっけ…)
そうだった。舟木の逮捕の事は丸一日たった今でもニュースになっていない。
弥帆は征一がそこにいることも忘れて考え込んだ。
征一はそれを、彼女なりにショックを受けているのかと勘違いしたのだろう、本の袋を元に戻すと部屋を出た。
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