寝返りを打つ。ベッドの横の時計を見るともう 3 時になろうとしているところだが全く眠くならなかった。
弥帆 (みほ) は、大人ならこんなときに酒を飲むのだろうな、と思った。
「なんで。
なんで『麻宮サキ』って言っちゃいけないんですか」
近くで見ると、以前の印象よりはるかにいい男だったし、声は想像していたのよりわずかに高かったがきちんと通る声だった。「野口」という名前も、ありきたりでなく、かつ、そんな苗字があるのか、というほど珍しくもない。何もかも好もしい、そして弥帆の敵を逮捕してくれた。そうした好感は、野口の言葉で一気に吹っ飛んだ。
「二度と、『麻宮サキ』の名前を口にしないことだ」
それはどういうことなのだ。弥帆は、礼を言うのも忘れて詰め寄った。
「君も、その名前の人物がどういうことをしたかは知ってるんだろう」
「少し…ネットで調べただけだけど」
「その名前に恨みを持っている者は大勢いる」
「でも、昔のことなんでしょう?!」
「百年も二百年も前ではない。
彼女に痛めつけられた悪人達は、仮に当時、下っ端の使い走りだったとしても、今ではそれなりの位置にいる」
「え、でもあいつらは」
さっきの男たちはどう見ても三十台には届いていない。
「それなりの位置にいる、ということは、現在の下っ端に命令を下せる立場にいる、ということだ。
彼らは、手痛い目にあった恨みを隠したりはしない。逆に、『麻宮サキ』という名前を耳にしたら教えろ、あるいは、殺してしまえ、という指示を常日頃から出している」
「殺してしまえ…」
弥帆の声が小さくなった。
「君は啖呵を切って景気をつけたつもりだろうが、おそらく彼らは、そこで目的を変えた筈だ。
それまでは単なるケンカだったが、その名前を耳にしては遊んではいられない。自分達のボスの命令だからな」
「ヤバかった、ってこと…?」
「二度と言わないことだ。
君が『麻宮サキ』を名乗っていることが知れたら、暗殺されても文句は言えないことになる」
「あ、暗殺?!」
半信半疑ではあったが、ネット上の数々の情報を選んでまとめた内容は、ほぼ正確らしい。「麻宮サキ」は、警察と組んで活動、多くの犯罪を取り締まった。その生き残り、あるいは、刑期を終えてまた悪の世界に復帰した者は、彼女に復讐してやろうと狙っている。
「麻宮サキ」自身ではないにしても、同じ名前で同じことをしていたら八つ当たりの対象としてはこれ以上のものはないし、本物でも偽者でも、背後の組織に対する復讐の手がかりになるわけだ。
「わかったな」
これは野口にとっても例外だった。
暗闇機関は、「麻宮サキ」や、都市伝説らしく誤った形で伝わった別の名前を使って「箔」をつけている不良やチンピラなどを放置している。そのことが逆に「伝説」としての信憑性を増し、実態を隠す役割を果たすからである。
だが、この水島弥帆は別だった。野口が見たのは今日が初めてだが、どうやら「ケンカ上手」である。しかも、どこで練習したのかヨーヨーの扱いも上手い。このまま放っておいては、本物と誤解されてしまう可能性があった。釘を刺さねばならないタイミングである。
「わか…あ、ちょっと待って」
弥帆は頷きかけたがとどまった。
「じゃ、野口さんは、その『暗闇』なんとかっていう組織の」
「それはもっと危険な名前だ」
野口の厳しい表情に思わず口を押さえる弥帆。
「私としては、一生懸命に普通の高校生活を送れ、とアドバイスしておく。
こんなことに関わっていると道を誤る。命だってどうなったかわかったものじゃない」
「…」
いくら憧れの人の言葉でも、はい、と言う気にはならなかった。あたしにだって、こうなったのにはこうなるだけの理由がある。そう言い返すのも癪だった。学校の教師にも言う気にはならないが、それは言っても無駄、上辺だけ同情するか、見当違いの厚意を示すだけで、何の役にも立たないからである。目の前の野口は別だ。全く相手にされないような気がする。
ざわざわした雰囲気が消えた。おそらく男たちは護送用の車の中にでも放り込まれたのだろう。残っているのは、野口ともう一人だけだった。
「それでは」
「もう一つ」
ポーカーフェイスというのだろうか、野口の顔には、まだか、という表情も出なかった。
「舟木康孝はどうなってるの」
そんな野口の目にも厳しさが増した。
弥帆自身も今の今まですっかり忘れていた。しかし、そもそもの発端はあの日の出来事なのだ。
彼女は見ている。父の知り合いで、弥帆が結婚させられかねなかった男の父親、舟木康孝が逮捕され、連行されていくところを。
しかし、それはまったく報道されないどころか、病気療養中ということになって、その妻さえ口裏を合わせている。
あのとき、舟木を逮捕したのは、この野口なのだ。
「教えて。
そもそもあたしが野口さんのことを知ったのは、あれがきっかけなんだ」
「…」
「教えてよ。あれだって本当は」
「彼はある種の犯罪に手を染めていた。
それを我々が逮捕した」
「やっぱり…」
「だが共犯がいる。それをあぶりだすために、各方面に協力を依頼して、病気ということにしてもらっている」
「協力…?」
「君にも協力して欲しい。
舟木はさる病院で治療中だ」
「…」
「いいな」
これも、はい、という返事をためらわせる話だった。
辻褄は合っている。その通りなのかもしれない。
しかし、「普通」すぎる。
さっきまで、伝説的存在だった「麻宮サキ」の話をしていた人間が従事している活動にしては、あまりに日常的過ぎるような気がした。
「どんな罪を」
「それは言えない」
「でも」
「心配は要らない。君は無関係だ」
「あたりまえだ!」
野口は、弥帆の反応をどう思ったのか、後ろの部下にヨーヨーとグローブを渡した。
「幸い、無関係で済んだんだ。これまでも無関係でいた方がいい」
「でも」
「さっきの話を忘れたのか。
犯罪者は、自分の犯罪を完遂するため、隠すため、そして時には楽しみのために、簡単に人を殺す。
君が、舟木の犯罪の詳細を知ろうとしたり、我々が捜査のために隠していることを暴こうとすれば、君自身に危険が及ぶ。
しばらくの辛抱だ。関わるな」
弥帆の無言を、拒否ではない、と判断したのだろう。野口は、車で送る、と言うときびすを返した。弥帆は、言いたい事は山ほどある筈なのに、それを言葉にすることができなかった。何をどう言えばいいのかわからないのだ。
車の後部座席では、小山田が一人で不安そうに座っていた。弥帆を認めると、安心したような表情になる。
部下らしい男が開けたドアから乗り込む。
外からドアが閉まり、顔を上げると、野口は別の車に乗り込んでいた。
「あ」
窓を開けようとする。だが、ボタンを押しても動かない。弥帆はドアを開けようとしたが、それも動かなかった。
「ちょっと、野口さん。
待ってよ!
停めて!」
車はすぐに走り出した。しかもご丁寧なことに、運転席と後部座席の間には仕切りがあり、運転手は弥帆のことを見向きもしなかった。
(まぁ、それはそうなんだろうけどね)
弥帆はまた寝返りを打った。
野口としては、言うべきことは言った、ということだろう。もちろん、弥帆が自分に「一目惚れ」したのだということは気づいてないだろうし、その必要もない。あとは無事に送り届ければおしまい、というわけだった。
(秘密は握ったんだけど)
なにをやらかしたのかは知らないが、舟木の事情を隠したまま、事件の捜査は進んでいるらしい。弥帆はそれを知った、ということになるが、それをネタに近づこうにも、どこに近づけばいいのかわからない。警視庁なのか、それとも検察なのか。近くの警察署、ということはなさそうだが、「野口」という刑事がいる、というだけでは手がかりになどなりはしない。
「終わった、か…」
弥帆は口に出した。
いろいろなこと、舟木のこと、「麻宮サキ」のことが胸の中で渦を撒いている。そのどれもこれも、弥帆が近づいてはならないものらしいのだ。何かで気を逸らしていないと、どうしてもそのことを考えてしまう。
その中にはどうやら、野口のことも含まれているようだった。
暑い。
弥帆は鞄を持った手を肩にかけた。
しかし悪い気分ではない。
学校は終わったのだ。夏休み。これでしばらく登校しなくていいと思うととてつもなく楽しい。
クラスメートたちは、長期の旅行へ行くらしく、ハワイだヨーロッパだと騒いでいたが、弥帆はそれを聞き流していた。
彼女も紛れもない「お嬢様」なのだが、家族旅行というものは彼女が小学生のときが最後だった。正確に言えば、母親が、弥帆が低学年のときに他界し、それから三回忌が済むまでは中止状態で、五年生の夏にサイパンへ行ったが、結果的にはそれが最後となった、という形で、したがってその前もそれほど多くはない。幼児を連れて海外旅行というのは難しいし、国内ながら、写真には写っているが弥帆自身は小さすぎて全く覚えていない、というのもいくつかあった。
理由は色々とあるようだが、表向きは、長兄が大学を卒業してミズシマ・スポーツに入社し、数年後には次兄がアメリカに留学して、「子供」が弥帆だけになった、ということが理由になっている。
また、水島家に限ったことではないが、子供が三人もいると、受験生が必ずいる、という時期が続き、家族の団欒は数年にわたってお預けになる、という家は少なくない。
父の征一は、幼少時の「お受験」以降はエスカレーターというのではろくな大人にならない、という考えを持っているらしく、二人の兄はそれなりに勉強をさせられていた。弥帆の方は、女の子だからなのか唯一の例外で、清真学園という、保育所から大学院まである学校に通って楽をしているが、兄二人はそれなりに神経質になっていた。それがそのまま続いているようなものではあった。
勿論、弥帆の方でも、家族旅行など御免蒙る、という気持ちであり、誰もそう言い出さないのはむしろありがたいと思っている。
「理枝ちゃんだったらいいけどな」
旅行代理店の前で立ち止まる。色々とパンフが並んでいた。
征一も、後輩の奥さんと一緒、というのであれば、ダメとは言えないだろう。弥帆は、後で電話してみようと思った。
コーヒースタンドの前を通り過ぎる。制服を着た店員が、アルバイト募集の貼り紙をはがしているところだった。もう夏休み。殺到した高校生で満員御礼、というところだろうか。清真学園は「お嬢様学校」なのでそういう話題が出る事は多くはなかったが、そんなタイミングだろう。
次に通った本屋の前では、アルバイト雑誌を目を皿のようにして呼んでいる若者がいた。乗り遅れたか。弥帆はわずかに苦笑した。
「…にしてもな」
話はわかった。舟木は逮捕、共犯がまだいるから極秘捜査中。わかったから、もう舟木邸には近づかないようにしている。
しかし気になるのだ。早い話、わが父の友人は一体、何をやったのだ? その内容によっては、征一だってまきこまれかねないのではないだろうか。記者とかが押しかけてくるようなことになったりするのではないだろうか。
だからって警告してやるわけにもいかないが。向こうにすれば、病人の悪口を言っているようにしか聞こえないだろうし、どこでそんな話を聞いた、と問い詰められればこちらが困る。説明のしようがないし、証拠もないのだ。やっぱり。
「ね、告った? 告った? 告った?」
弥帆は飛び上がるほどビックリした。
後ろで声がしたかと思うと、その声の主である、中学生らしい少女 3 人は勢いよく弥帆の横を走り抜けて行った。
「脅かすな!」
振り向いたのは彼女達ではなく一般の買い物客だった。
夏休みだからって浮かれやがって。
(あたしも、か)
確かにそういうタイミングだった。
後になってよく考えてみると、顔、声、身長、雰囲気。どれをとっても弥帆の好みのタイプだった。これほどの組み合わせはない。自分に「おじ様」趣味があるとは思わなかったが、非の打ち所のない男だった。あれは絶対に、別の出会い方をするべきだった。そうすれば、越えるべきハードルは年齢差だけだったのに。
(刑事なんだもんなぁ)
しかも自分に近い事件を捜査中。
(つか、野口さんって『暗闇捜査局』の人なんだろ?)
野口の言葉は何度も反芻したので覚えている。
弥帆がその名前を口に出したとき、危険だからやめろ、と言われたが、あの感じでは、野口は「麻宮サキ」を直接、知っているような気がする。
どんなものだかはわからないが、普通の警察官、普通の刑事ではない、ということになる。となると再会は絶望的だ。
「あたしが、舟木の秘密を暴けば会えるかもね」
そんな真似をする気はない。
となるとやはり、絶望的、ということになるわけだった。
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