「あれ、珍しいね。菊池さんが 3 日続けてパンなんて」
兄の誠が言った。
「申し訳ありません。炊飯器のスイッチを押し忘れてしまいまして」
住み込みの家政婦である菊池が申し訳なさそうに頭を下げた。
「あ、そうなんだ。
いや、別に怒ってるわけじゃないよ」
誠の声は続いた。
「おやぁ、こっちも珍しいな。弥帆が俺より早く起きるなんて」
弥帆は食卓から離れたソファに座っていた。
「…始業式の日くらいはね」
「それでも立派なもんだよ。あ、父さん、おはよう」
征一がやってきた。
「おはよう。
おや、そろそろ和風かと思ってたんだが」
「もうしわけありません」
「炊飯器のスイッチ忘れたんだって」
「そうか。いや、別にパンでも構いませんよ」
「年のせいか、ちゃんとセットしたつもりで忘れることが多くなりまして。今日はちょっと間に合いませんでした」
「気にしないことですよ。もし疲れているようならいつでも休みを取ってください。
弥帆もいたか。そろそろ食卓に着きなさい」
「菊池さん、うちの釜ってどこの?」
弥帆は、それには答えずに言った。
「はい、ミカミでございますが」
「じゃ、これじゃない?」
立ち上がって、菊池に新聞を渡す。一番下に、リコールの知らせが載っていた。
「タイマーあたりがおかしいらしいよ」
「あらまぁ、本当」
「菊池さんのせいじゃないよ。後で電話してみたら?」
「そういたします。
ありがとうございます」
自分の席に着く弥帆。二組の視線に気づく。
「…。
なに」
「お前、新聞読むようになったのか?」
誠が目を丸くしていた。
「っせーな…」
弥帆は、兄と父から顔を背け、トーストにかぶりついた。
数日後、弥帆の教室に後輩の女子生徒が二人やってきた。ペコリと頭を下げて、自己紹介をする。
「お願いがあるんです」
やっぱり。可愛い後輩も困っているのだろうが、自分もあまり平和な毎日ではない。周囲の人間がトラブルを起こしているのに、自分まで面倒を抱え込むのはどうかと思い始めていたところである。
「揉め事?」
「いえ、揉め事って言うか」
「乱暴な話ならちょっと」
「そんなことはありません。
多分…」
断わられるとでも思ったのか、恐縮して体を小さくする。
「放課後でいい?」
「はい。
お願いします」
元気な声が返ってくる。やっぱり断れなかったか、と弥帆はため息をついた。
「ミカミのお嬢さんね」
そういえば、ここの生徒だと聞いたことがあるような気もする。あるいは、あの朝、ミカミのリコール記事に目が行ったのはそんなせいだっただろうか。
弥帆の家のものを含め、三種類の電器炊飯器がリコール対象となっていた。6 月くらいに出たばかりのものである。タイマーの周囲の配線に問題があるらしく、スイッチを押しても炊き上がらないという故障が多かったらしい。調べたところ、使う環境によってはショートする可能性もある、ということがわかりリコールすることになったのだが、それが判明したのが一ヶ月も前だ、ということで今、「ミカミエレック」はメディアからの袋叩きにあっている。ショートすれば、家庭のブレーカーが落ちたり、最悪の場合には火を吹くこともある、ということがその勢いに拍車をかけていた。
それにショックを受けた三上春香が学校に来なくなっている。
「だからってさ」
登校拒否は教師の管轄だ。あるいは、この屋上でかしこまっている友人たち。会ったこともない先輩の弥帆が出る幕ではないような気がする。
「春香ちゃん、ケータイにも出てくれなくなっちゃって」
「…」
「留守電に入れてもかけなおしてくれないし」
それは心配が行き過ぎたせいだろうと思う。元気付けようという気持ちはいいが、休み時間ごとにかけたのでは、普通の状態であっても鬱陶しく感じられるのではないか。
「直接会ったほうがいいんじゃないの?」
「行けないんです」
「居留守とか?」
「そうじゃなくて、記者が待ち構えてて」
「あぁ、そっちか」
会社ならともかく、自宅には記者を入れないようにしているはずだが、心配している友達が現れたのでは門を開けざるを得ない。そこで無理に入り込まれる危険があるし、彼女達だって記者に質問攻め、ということになる。近づきたくないと考えるのは当然だ。しかし。
「まさか、その記者をやっつけろなんて言わないよね」
「やっつけるって言うか、追い払うって言うか」
弥帆は、アホか、と言いそうになった。深呼吸。どう言えばいいか頭の中で組み立ててから口を開く。
「そんなことしたら逆に大騒ぎになっちゃうよ。向こうはどっちかってばそうなるのを待ってるんだ」
「でも…」
「別の方法を考えな。そんなことしたらカメラが増えるだけだよ。
その子のお母さんにでも相談したら? どうしても会いたいって言えば、なんか考えてくれるかもよ」
「…」
期待を裏切ってしまったらしい。だが、だからと言って、正義を笠に着ているマスコミ連中をたたき出すなどという真似ができるわけがなかった。
「その子が心配なんだろ?
その気持ちを伝えるには、人を頼っちゃダメだ。自分でやるからこそ伝わるってことあるんじゃない?」
二人が驚いた顔になる。弥帆は、我ながらいいことを言った、と思った。しかし、彼女達は驚いただけで、道を見つけた、という顔にはならなかった。小さな声で、ありがとうございます、と言うと階段を下りていった。
「あたしにだってどうしようもないことはあるよ…」
案内されて野口が部屋に入ると、矢島雪乃が深々と頭を下げた。
「わざわざいらしていただいて、ありがとうございます」
「いえ、今日は私からお願いするわけですから」
二人が応接のソファに座る。コーヒーを運んできた秘書が下がるまで二人は無言だった。
いや、更に数秒。ドアの向こうでかすかに音がしたのは、秘書が隣の部屋から出て行ったときのドアの音だった。
「これで大丈夫ですわ」
野口が頷いた。
「では、お話を伺います」
「お願いというのは、ミカミエレックの救済を検討していただきたい、ということです」
雪乃の眉がわずかに緊張した。
「ミカミエレック、ですか」
「はい。
先日のリコール隠しの一件以来、激しく叩かれています。株価も急落中で、このままでは会社が立ち行かなくなる可能性があります」
「えぇ。
それはその通りですわ」
ミカミエレックは、数年前までは、価格が安くそこそこの品質の製品ばかり作っており、家電量販店の広告で「有名メーカー」と書かれる種類のメーカーだったが、最近は高価だがしっかりした製品を作る方向に舵を切り始めた。しかし、依然として巨大メーカーの同じクラスの製品より安いため、時折、話題になっている。
特にどこの系列にも属していないため、矢島財閥が救済の手を差し伸べることに不都合はない。
だが、一家電メーカーの株価をなぜ暗闇機関が気にするのか。
「既に買収の動きがあるのはご存知ですか」
「私どもの調査部門から、後藤電器が動いているという報告を聞きましたわ」
「我々としては、後藤電器をこれ以上大きくしたくないのです」
今のところ、国内第三位の家電メーカーである。十年前に家電部門を閉鎖したが、それを含むリストラが効を奏したのか業績が安定してきた。ここでミカミエレックを買収することで、その分野に復帰しようとしているのだ、という想像は簡単だった。
なぜ暗闇機関が、という疑問は残る。
だが、雪乃はその答えを持っていた。
「後藤電器は、なんらかのカルテルに加盟しているようですわね」
「なんらかのカルテル…」
「それがどういうものかは残念ながら掴めていません。
でも、暗闇機関ではすでにご存知なのでしょう。
だから、後藤電器の事業拡大を妨害したいのでは」
「その通りです」
「それはどのような」
「…。
我々は『牧童会議』と呼んでいます」
「『牧童会議』…」
「詳細は別の機会ということにさせてください。申し訳ないが、ここでお話しするのは気が進みません」
「わかりました」
「しかし、それがただの『カルテル』の類ではない、ということはお知らせしておきます。
奴らは」
「後で結構ですわ。
暗闇機関がマークしている、というだけで、それがどういう種類の組織なのか、私にはわかります」
かつて、「麻宮サキ」を名乗る友人を得た。それは偽名であり、本当の名前は早乙女志織というのだったが、そうなった経緯はまさに「すさまじい」の一言だった。彼女と、もう一人の友人、中村京子と共に、今にして思えば、命を落として当然、大怪我で済んだのは百万分の一の幸運だった、という一年を過ごした。
その志織をバックアップした組織、今、中村京子が所属している組織、暗闇機関。
矢島財閥は今、機関のスポンサーになっている。野口がこうしてやってきて協力を依頼するのは、そうした関係に基づいている。全てとは言わないまでも、お互いのことを知っている関係だ。
であってみれば、雪乃が調べさせていたカルテルが、暗闇機関がマークしている組織であるとわかった今、状況判断のための材料はひとまず揃っている、と考えるべきだった。
「ミカミエレックには基礎的な技術力があります。
また、これまで大企業と同程度の製品を低価格で抑えてやってくることができたのは、新規技術の開発能力という裏づけあってのこと。矢島の目から見ても、十分に支援の価値がある会社です」
「そう言っていただけると安心です」
弥帆の家の朝食はいつものリズムを取り戻した。家政婦の菊池が、和食と洋食を適度に入れ替える、バランスの取れた朝食である。
炊飯器は結局、別のメーカーのものに買い換えた。企業人である父は、リコール隠しをするような企業は信用できない、と言ったからである。弥帆は、安くていいものを作っている見所のある会社だ、と言って薦めたのは誰だ、と思ったが黙っていた。
「ねえ君」
登校途中、もうすぐ校門というところで、横から話しかけられる。
「ここにミカミエレックの社長の娘がいる、って本当?」
「嘘だよ」
弥帆は即答した。誰かは知らないが、ロクなものでないことはわかる。
「またまた。
ってことは、いるんだね?」
人当たりをよくしようという努力が見える。それが却って気持ち悪い。
「ちょっと待ってね」
「え、教えてくれるの。君、クラスメートかなんか?」
弥帆はポケットから携帯電話を出した。男は、必要以上の期待を込めて待っていた。
「!」
いきなりシャッターを切る。
「な、何すんだ」
「先生、痴漢だ!」
校門に向かって叫ぶ。生徒たちの注目が集まり、ほがらかに挨拶をしていた教師二人がこちらを向いた。
「先生、こいつ、あたしたちの個人情報集めて回ってる。痴漢だよ!」
教師が走り出す。男は慌てて逃げようとしたが、弥帆が足をかけるほうが早かった。その場に倒れる。
弥帆は男のポケットに手を突っ込んだ。出てきたのは IC レコーダー。「四季文化社」とシールが貼ってある。
「大丈夫か」
「こんなの持ってたよ」
「四季文化社…雑誌の記者か!」
「ちょ、ちょっと待て。暴力は、報道に対する――」
「立ちなさい。話を聞かせてもらおう」
嫌悪感を丸出しにしている生徒たち。何が起こったのか聞いている生徒もいる。
だがその後ろで、三上春香のことを弥帆に頼みに来た二人が、顔を青くして怯えているのが見えた。
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