「野口さん…」
棒を振り上げた弥帆の力が緩む。野口はそれをゆっくりと弥帆の手から抜くと、放り投げた。大きな音が響いた。弥帆は用のなくなった両腕をだらりと落とした。口で息をしている。
野口は弥帆が殴りつけようとした男に手錠をかけた。部下らしい男が走ってきて、男を立たせた。
「柴崎は?」
部下は黙って首を横に振った。弥帆は、その言葉に、はじかれたように顔を上げたが、さっきいた場所に視線を投げると、歩き始めた。少しずつ足は早くなる。
「おじさん…」
弥帆の隣で崩れたままの姿。胸から流れている血が、白いシャツを染めていた。
「なんで…」
同じように弥帆も崩れた。膝から落ちる。
「なんでだよ…」
野口の部下――つまり、警察の身分証を見せた男も刑事ではなく、暗闇機関のエージェントだった、ということだが――たちは、拘束した男たちを連行し、あるいは、倉庫内部を点検していたが、弥帆はそれを意識してはいなかった。
助けられなかった。
弥帆に助けを求めてきたのではないが、柴崎は身の危険を感じ、助けを必要としていたのだ。
「隣にいたのに」
「…。
君の責任ではない」
「あたしの隣にいたのに!」
吐き出すように叫ぶ弥帆。
失われたのは人の命だ。今までの便利屋ごっことはわけが違う。それこそが、絶対に守らなければならなかったものなのだ。
いつもと同じ。そう思ってはいなかっただろうか。ちょっとしたトラブル。会社経営なんてもめごとはつきもの。よくある話。
ケンカなら場数は踏んでる。拳銃は初めてだったが、なんとかなる。
そう思っていたのではないだろうか。
「あたし…あたし…」
野口が弥帆の腕をつかんだ。
「ここはまずい。我々の車に行こう」
腕を引かれていく。
ワゴンに乗せられる。野口は、スライド ドアを閉めるとしばらく外で指示を出していた。部下達はテキパキと動いている。人が殺されたというのに動揺している様子がない。プロなんだ、と弥帆は思った。
ドアが開く。野口はシートを回して、弥帆の向かいに座った。涙は止まっていた。
「柴崎と何を話したか教えてくれないか」
「…。
コーラルの不良品のことは知らなかったって」
野口がここにいたということは、この事件のことは知っている、ということだった。後藤電器の買収計画のことなど改めて言う必要もない。
「そうか…。
リスクを分散したんだな」
「後藤電器が、柴崎さんに知らせないで勝手にやったんじゃないかって」
「だろうな。
柴崎は、それを絶好のチャンスだと思って、リコール隠しでミカミの株価を下げようとした」
「うん…」
弥帆の視線が落ちる。柴崎は、自分で仕掛けたつもりが、誰かが仕掛けたものに乗っているだけだったのだ。それに気づいて、殺された。
「君がここにいるのはなぜだ」
「ミカミの社長の家に行くところだった。
あ、パーティ」
携帯電話を取り出す。春香からいくつも着信があった。
「今更、パーティじゃないよね…」
「そこに柴崎も呼ばれていたのか」
「ううん。柴崎さんは、コーラルの社長の自殺は自殺じゃないかもしれない、って思ったんだ。そうすると次は自分かもしれない。それで、三上社長のところに来てた。
なんか思いつめてた様子だったから、声をかけたんだけど…」
役に立たなかった。
「相手が悪すぎる。君が生きているだけでも幸運なんだ、と思うべきだ」
「幸運?!
柴崎さんが殺されたんだよ?!」
「隣にいた少女は死なずに済んだ。
被害者は少ないほうがいい。単純な算数だ」
「やっぱりあんたとは住む世界が違う」
「その通りだ」
「ちょっといい男だって思ったあたしがバカだったんだ」
野口はわずかに首をひねった。
「おろしてくれ。
あたしは三上社長のところに行かなきゃならない」
「今夜の事は口外してもらっては困る」
「またかよ!」
立ち上がりそうになる弥帆。ここが車の中だということに気づいてとどまる。シートに座りなおす。ふと気づいたように顔を上げた。
「まさか…今までの事件、つながってるの?」
「答えられない」
「つながってるんだね…?」
「好奇心は猫をも殺す、という言葉を知っているか。
余計な詮索をすると」
「あんたたちと、昔のスケバン刑事たちは、一体、何を調べてるんだ」
「何度言えばわかる。わざわざ危険な領域に首を突っ込むな」
「教えろ!」
弥帆は野口の胸倉をつかんだ。
「あたしが勝手に首突っ込んだのかもしれないけど、あたしは何度も危険な目に会ってる!
あたしの隣で人も殺された!
これで、何にも知らないなんて話があるか!」
「だから手を引けと言っているんだ。
今度こそ死ぬことになるぞ」
「だから、あたしは誰に殺されるんだ!」
「それを知れば、殺される確率は跳ね上がる。知らないでいた方が安全だ」
「だから誰なんだ!」
「三上の娘が巻き込まれたらどうする」
弥帆の手が緩む。
「君が命を狙われるという事は、君の周囲に被害が及ぶ、ということだ。
その責任が取れるのか?」
弥帆は手を放すとまたシートに沈み込んだ。
「取れるわけ…ないじゃん」
あの可愛いお嬢様が狙われるということになったら。自分一人ですら随分と恐い思いをしている。他人を巻き込むなどということができるわけがない。
「これに懲りて、人助けに精を出すのはやめることだ。まず自分の人生を大事に生きろ」
「大きなお世話だよ」
「三上家に欠席の連絡はしなくていいのか」
「…」
弥帆はのろのろと携帯電話を取り出した。しかし、その電話を見ているだけだった。どう話せばいいというのだ。
「私が代わろう」
「え?」
「体調を崩して病院に飛び込んだことにでもすればいい」
「あ、でも」
「どうした」
「玄関に、花束、置いてきちゃってる」
「…。
なら、拾ったことにする」
意味がわからなかったが、弥帆は電話を差し出した。
「かけてくれ。私は番号を知らない」
「あ、そうか。
はい。娘のケータイにかけた」
待っていたのだろう、電話はすぐにつながった。
《弥帆さん?!》
「水島弥帆さんのお友達の方ですね?」
《あ…はい》
「私は、城南大学病院で医師をやっております、佐藤と申します」
《お医者さん…ですか?》
困惑しているのが手に取るようにわかる。素直な娘のようだ。彼女を巻き込む気か、と弥帆に言ったのは思っていた以上に有効だったのかもしれない。
「水島さんなんですが、お宅の近くで、体調を崩した女性を見かけて、こちらまでお連れいただいたんです。お約束があったとのことですが、そういったようなわけで、伺えなくなってしまいました。
その女性なんですが、ちょっと吐血などもしていて、それをご覧になった水島さんがちょっと具合を悪くしてしまいまして。代わりに私がご連絡差し上げているようなわけです」
《あ、あの。弥帆さんが病気とか怪我とかいうわけではないんですね?》
「それはご心配なく。患者さんに付き添っていらしただけですので」
《私、今から行きます》
「いえ、それには及びません。一休みしたところでお帰りになるとのことですので。ただ、そちらには伺えないようです。
玄関先に花束を置いてきた、とおっしゃってますが、届いてますか?」
《はい》
「そうですか、じゃ、その件については後でご本人にお伝えしておきます。
あまり心配なさらないでくださいね。では失礼します」
それ以上、あれこれ聞かれないよう、野口は電話を切ってしまった。
「あたしが血を見て気分悪くなるなんて、無理があるよ」
「細かいことだ」
携帯電話を返してよこす。
「送っていってやりたいところだが、そういうわけにもいかない。
タクシーで帰ってもらうことになるが」
「電車で帰るよ」
「危険だと言ったばかりだぞ」
「もう大人しくするよ。
後輩たちを人質に取られちゃったからね」
「…」
「まだなんかあるの?」
野口は、いや、と言うと車を降りた。弥帆も続く。
「これが最後の忠告だ。
自分を大事にしろ」
「最後なんだ」
「この次があるとしたら、それは忠告というレベルではない」
弥帆はため息をついた。絶望的な気分、というのはこういうのを言うのだろう。何もかもとりあげられてしまったような気がする。
「さよなら、野口さん」
弥帆はそのまま歩き出した。また目頭が熱くなってきた。
やっと家にたどり着いた。別に駅のホームで誰かに押されたりすることもなかった。部屋に入ると、ベッドに倒れこんだ。体が重い。ものを考えるのも億劫だった。ものすごいショックに襲われたのだ、ということは確かだった。炊飯器の故障に始まった事件が、企業買収の一幕であり、そこには不正な手段が使われており、その一人が命を落とし、一時は憧れた野口には最後通告をくらい…。
シャワーは浴びたい。ほこりっぽいところで暴れたので髪が気持ち悪い。
立ち上がるとドアが開いた。
「弥帆」
征一だった。
「ノック位してよ」
征一は弥帆の抗議を無視した。固い表情で大またでやってくる。ふいに弥帆の右腕を取った。
「何すんだよ」
「見せなさい」
弥帆が思っていたよりも強い力だった。逃れようとするが征一は腕を放さなかった。しかし、何度か方向を変えて手を見ると突然、放した。
「何の真似」
「…。
また暴れたそうだな」
「情報、早いね」
弥帆は敵意のこもった視線をぶつけた。ただでさえ機嫌が悪い。この家の人間は、今、会いたくない者の筆頭だった。
「謹慎だ。
この部屋から出る事は許さない」
「謹慎?」
征一の視線には、今日、会った者たちと同じような色があった。娘を怒っている、というのとは違う。今までに見たことのない光だった。
「今頃、何言ってんの。
あたしのケンカなんかいつものことでしょ」
「私が甘やかしすぎたようだな。
処分が決まるまでここにいなさい」
「ふざけんな!」
出ようとする征一を追う。腕をつかもうとする弥帆。だが、征一はそれを激しく振り払った。弥帆はバランスを崩し、床に尻餅をついた。
「父さん…」
「私の目を盗んで、お前は…」
しかし征一は、それ以上、続けず、部屋を出た。ドアがしまると、ガチャリ、という音がした。弥帆はドアに飛びついた。ノブを回すが手ごたえはない。ロックも解除できなかった。
「なんで…」
内側から開かないとはどういうことだ。いつの間にそんな仕掛けを。
弥帆は体当たりした。ドアは揺れるだけでとても開きそうにない。
「監禁か…。
上等だよ!」
靴のまま蹴り飛ばす。ドアはやはり開かなかった。
「しかし、我々が動くわけには」
宮嶋が言う。野口はそれに視線を返しただけだった。
失敗した。家に帰すべきではなかった。
「放っておくわけにはいかない」
弥帆が学校を休んだ。病欠という連絡はあったが、あんなことがあったばかりである、確認させた結果、自宅で軟禁されていることがわかった。
牧童会議はついに弥帆が何をしていたかに気づいたのだ。そこに暗闇機関の影がちらつくことが判明するのはあっという間だ。彼女は処分される。
「しかし、水島征一がそれを受け入れるでしょうか。養子とはいえ、自分の娘ですよ」
「会議の決定を拒否するという選択肢はない。下部組織や新参者ならともかく、ミズシマ・スポーツは古参のメンバーだ。実子だろうがなんだろうが、差し出すしかない」
「…」
「俺は、水島征一自身が彼女を処分することを提案したのだとしても驚かないぞ」
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