ノックの音。返事をすると、入ってきたのは野口だった。
「眠れたか」
「…。
あんまり」
当然のことだった。
軟禁されていた水島邸――つまり、自分が生まれ育った家から救出された弥帆は、暗闇機関の建物に保護されていたが、野口達からすべてを聞かされた。
この世界には、「牧童会議」という組織があり、この世界を「よりよい世界」にするために、若者を従順な子羊として育て、その中から一握りのエリートを選抜しては自分達の後継者に据えている。選抜されたなかった者たちは、彼らに支配されるだけの存在、彼らが理想とする世界の材料としての扱いを受ける。ここのところ弥帆の周囲で起こっていた事件は全て、会議の意向に沿わない行動をする若者達をたたきつぶすために行われたものだった。
牧童会議には、全国的に名の通った企業が密かに名前を連ねている。弥帆の育ての親、水島征一のミズシマ・スポーツもその一つだ。
弥帆は、持ち前の「腕っ節」と正義感を見込まれ、人に面倒なことの解決を頼まれることが多かったが、ここ数ヶ月の間は、牧童会議が仕掛けた計画と接触することが重なった。そのことがついに会議に知れた。会議は、父親である征一に、処分が決まるまでの間、弥帆を拘束しておくように命令したのだった。
弥帆は、自らが水島邸に近づくことを嫌った暗闇機関が依頼した風魔によって救出されたが、そのことは会議側に疑惑を呼んだ。
暗闇機関が牧童会議をターゲットとして活動している事はわかっている。当然、水島邸の周囲にはそれを想定した警戒態勢が組まれていたが、救出者はそれを易々と乗り越えた。しかも、痕跡はほとんど残っていない。あるいは、暗闇機関ではないのではないか。第三者が介在しているのではないか、という、疑心暗鬼にしては正確な疑いが首をもたげた。
彼らは、その疑いを、弥帆と仲のいい年上の友人、ミズシマ・スポーツ直営店の店長をしている男の妻である福原理枝に向けた。彼女が手引きしたのではないかと考えたのである。最も弥帆に対して同情的で、水島邸に頻繁に出入りして中の様子も知っている理枝が疑われるのは止むを得ないと言えないこともないのだが、当然、彼女には身に覚えがない。
しかし、それだけではなかった。理由は知らないまでも、弥帆が軟禁状態にあったことを聞いた彼女は、尋問者にくってかかった。若い頃に「スケバン」であったことが蘇ったのか、「知っていたって、教えるもんですか」と吐き捨てた。
おそらくはそれが原因になったのであろう。知っているにしろ、知らないにしろ、いずれにしても役に立たないと判断された彼女は、あっさりと殺された。
「理枝ちゃんはどこだ!」
それを聞いた弥帆は叫んだ。
「落ち着け」
「どこなんだ!」
「もう間に合わない」
「…」
弥帆は落ち着かせようとした野口の腕を振り切った。
「誰がやったんだ」
「わからない」
「まさか、父さんじゃ」
血はつながっていないとはいえ、自分の娘を牧童会議に差し出そうとした男だ。他人を殺すことなどなんの躊躇もしないのではないか。
「それは違う。
会議のメンバーが自分で手を下す事はありえない」
「じゃぁ、誰なんだ!」
「それを聞いてどうする。君にはどうしようもない相手だぞ」
「ぶっ殺すことくらいできる!」
野口は部下の宮嶋に目で合図した。危険な兆候だった。
宮嶋がドアを開けた。野口は弥帆の肩に手を回そうとしたが、弥帆はそれをまた振り切った。爪が野口の手の甲を掠めた。
「あんたもあたしを監禁するのか」
「今の君は我を失っている」
「当たり前だ。
あたしの一番大事な人が殺されたんだぞ!」
「だから外に出すわけには行かない」
「出せ!
そいつを探してぶっ殺――痛ぇな!」
野口につっかかっている間に宮嶋が後ろから弥帆の腕を取った。身動きできなくなった弥帆は、大声を上げ激しく抵抗はしたが、そのまま自分にあてがわれた部屋に放り込まれた。
「明日になったらまた来る」
野口はそういってドアを閉めた。弥帆は、ふざけんな、と叫び、ドアを開けようとしたが、それは、自分の部屋のドアなどとは比べ物にならないほど頑丈で、蹴飛ばしても揺れもしなかった。弥帆は狼のような声を上げて叫び、泣いた。
一夜明けてみると、目は真っ赤だったが、弥帆の声は落ち着いたものに戻っていた。
「手を下したのは、『シェパード』という組織の連中だ。
前に、『ファイヤーバード』という連中とやりあったことがあるはずだが、それと同類の、牧童会議の戦闘部隊だ」
「…。
そいつらの居所なんて、わかるの」
「残念ながら無理だ。何割かは顔も判明しているが、今、どこに潜伏しているかはわからない」
「わかった…」
野口は眉をひそめた。弥帆は顔を上げない。
「あたし、どうすればいいんだろう」
「どう、とは」
「もう家には帰れないよね」
顔を上げてはいないが、無理に苦笑しているのは見えた。
「居候させてくれる友達もいないしさ。ずっとここに閉じこもってることになるのかな」
「外に出たいか」
「そりゃ」
一瞬、弥帆は顔を上げた。
「当たり前じゃない。
それとも、暗闇機関でお茶汲みとか雇ってくれる?」
「水島姓になってから、浅海の親戚に会った事はあるか」
「ないよ。
中学に入るまで、あたしは『水島』だって思い込んでたんだから」
「戻る気はあるか、浅海に」
「え…?」
今度こそ顔を上げる。弥帆は、何を聞いたのか理解できないような顔で野口を見ていた。
「我々が調べた範囲では、君の両親の兄弟達は、君を水島に押し付けたわけではない。
経済的に余裕がなかったのは事実で、そこに金持ちが罪滅ぼしをしたい、と現れたから、という消極的な理由だ。
改めて、君を引き取る意志はないわけではないようだ」
「できるの、そんなこと」
「書類上の操作くらいならいつでもできる」
「でも、会議はどうするの。
あたしを追ってくるんじゃないの?」
「そうだと思う。
だからこれは、それが解決したら、という話だ」
それほど喜んでいたようには見えなかったが、弥帆が落胆したのは明らかだった。
であればいい。それは全く健全な反応だった。野口は決心した。
「それまでの間、風魔の拠点にいてもらおうと思っている」
「風魔…って、頭領さんの」
「あの道場だ。そこに彼女の姉がいる。これも会っているはずだな」
弥帆はしばらく記憶を探っていた。
「あの、冷たい人?」
結花を「冷たい人」と形容する人間は初めて見た。だが、それは、弥帆を追い返すために結花がとった作戦が、そう装って取り付く島を与えないことだったのだから止むを得ない。
「しばらくそこに身を隠していてもらおうと思っている」
「いいよ」
即答なのは気になる。家庭に続いて大事な友人を失ったことで、物事に対する執着を失っているのではないか。
だが、「浅海」には反応している。野口はそれを「餌」として示したのではなく、本当にそうするつもりで既に手を打っていた。時期を選べばいい方向に向かうはずだ。そして、結花にしろ唯にしろ、野口や零のような「戦闘ロボット」ではない。彼女達の持つ空気が更に弥帆の悲しみをやわらげてくれることを期待していい。
風魔と暗闇機関は協力関係にある組織で、牧童会議の件についても強調して行動しているから、その拠点が多少ざわつくことは考えられるが、そこは結花が上手く計らってくれるはずである。
「では、決まりだな。
出られるか」
「え、もう?」
「早いほうがいいだろう」
「いや、ま、いいけど」
何か荷物があるわけではない。与えられた着替えはそのまま持っていっていい、ということなので、弥帆は同じく与えられた袋にそれを詰め込んだ。
「宮嶋に車で送らせる」
「あ…」
つまり、野口とはここでお別れ、ということになる。
弥帆は、やっぱりいい男なんだよな、と思った。言い回しは確かに冷たいし、何度か衝突してもいるが、それも理由のないことではない。一応は、弥帆のことを心配して言っていたのだ。
今となっては、いろいろな事がありすぎて、そして、生きる世界が全く違うこともわかって、恋愛感情はすでにないが、本当に、出会いが別の形であったら、と思わないわけには行かない。
「あの、手、痛くない?」
夕べ、弥帆が暴れたときに引っかいた傷のことだ。甲に赤い線が残っている。
「この程度では、かすり傷にもならない」
「…。
ごめんなさい」
「気にする必要はない。行くぞ」
《まだ見つかりませんか》
「はい。
人数を増やして捜索させてはいるのですが」
征一は携帯電話を持った手を入れ替えて汗を拭いた。社長室の冷房は十分に効いているのだが、汗が止まらなかった。
《彼女は特別です。
ずっとあなたのそばにいたのだから、何を知っているかわかりません。それが『機関』などに漏れたら大変なことになります》
「はい。それは承知しています」
《万が一のことがあれば、上級理事とは言え、あなたの責任を問わざるを得ません。もちろん、あなたの会社もです》
また汗が出る。それは絶対に避けなければならない。
《拘束しようとするから手間取るのではないのですか》
「…。
それは」
《秘密が漏れなければいいのです。
言ってる意味はわかりますね?》
「議長、それなのですが」
《命乞いですか》
言い当てられて言葉を失う。
「是非、お話をさせていただきたいのですが、お時間をとってはいただけませんでしょうか」
《水島社長…》
「お願いいたします!
行方は責任を持って見つけ出します。ですから、是非、お願いします」
電話の向こうはたっぷり十数秒、沈黙していた。
《いいでしょう。
あなたのこれまでの功績を考慮して、時間を作ります。
ですが、その結論については保証はしませんよ》
「はい、ありがとうございます。それでお願いいたします」
日時については後で連絡する、と言って電話は切れた。征一は携帯電話をデスクの上に置くと、ハンカチで何度も汗を拭いた。
デスクの上の写真。小さい頃の誠と浩司と弥帆。どれも笑顔だった。あれから何十年も経っているような気がした。
いや、それを懐かしんでいる場合ではない。このままでは、それが完全に失われてしまう。弥帆の助命を願い出るにしても、逃げられたままなのと、手元においてあるのとでは、効果が全く違う。シェパードには増員を命じなければ。
気分が晴れるわけはない。
勿論、風魔の人々はかなりよくしてくれる。結花の印象は、180 度変わった。あれは、弥帆を帰らせるための芝居だった、というのがはっきりわかった。なんでも、頭領の唯が末っ子で、宮崎の本部に次女がいて、結花が長女らしいのだが、まさに「お姉さん」という感じである。
テンポそのものは穏やかである。勿論、その拠点にいる人々は「忍者」であり、それぞれに弥帆の想像もつかないような任務を持っているし、そうでない場合でも、庭や道場で訓練に余念がない。二日目にして早くも暇をもてあました弥帆は、許しを得てその訓練の様子を見学した。
最初こそ、人間離れした身のこなしに感心したりしていたのだが、やがてそれは自分の身に帰ってきた。気安い人々は、簡単なところから教えるからやってみないか、と誘ってくれるのだが、弥帆はそれを固辞した。
プロの訓練を邪魔しては悪い、ということのほかに、熱心な彼らを見てると、自分には目的も未来もない、ということを痛感させられる。そうした訓練すら暇つぶしでしかない、ということが情けなく不愉快だった。弥帆が見学したのはその一度だけだった。
落ち着いたところで考えてみると、近づくな、という野口達の忠告は全く正しかったことになる。牧童会議に関わるのは、とてつもなく危険なことなのだ。
育ての親は豹変し、弥帆に最も近かった理枝は殺された。戦闘部隊があり、政治家や役人や大企業がそれを操っている。彼らにとっては、被支配層の人間の命など、枯葉ほどの重さもない。
それが正しいことだとは思えない。だが、弥帆は無力である。それは、ヨーヨーがあるとかないとかいうレベルの話ではない。弥帆と野口とが違う世界に生きているように、一般の人々と牧童会議とは、抵抗することすらできないほど隔絶している。
自分のような人間は、牧童会議の存在に気づかないまま、静かに生きていくしかないのだ。
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