少女が走っている。学校帰りなのか紺のブレザーに革靴だが、今、走っているのはそれに似つかわしくない山道だった。
時折、後ろを振り向いたりしているのは追われているからか。
九十九折の山道を走りつづける少女。不思議なことに息が乱れていない。
何かが空気を切る。手裏剣だった。少女は身軽に飛んだ。カカカ、と足元で音。着地の直後に、その場所に視線をやる。
(?)
一瞬、当惑の表情が浮かんだが、少女はそれを置き去りに走り出した。
日が傾く。少女は、暑いので外していたブレザーのボタンを改めてはめ、襟を立てた。ブラウスが隠れ、白く見えるのはソックスと、時折覗く袖口だけとなった。
また、何かが空気を切る。少女は、今度は飛ばずにカバンを差し出した。手裏剣が 3 つ刺さる。少女はそれを抜き、詳細を確認すると、振り向いて反対方向に放った。手ごたえがあった。また走り出す。
(どういうこと?)
今度は林の中に飛び込んだ。何度か枝を渡り、周囲を監視できる木の上に身を潜める。
2 度、深呼吸。
周囲を油断なく見回しながら考える。なぜ鬼組の手裏剣が自分を狙っているのだ。
気配。少女は横に飛んだ。カバンの縁を叩き込むと、敵は落下していった。
そのまま着地。走る。
これを説明できる理由は 2 つ。どちらかが裏切ったか、第三者が鬼組に濡れ衣を着せようとしているか。
裏切りはない。自分はそうではないし、風魔の頭領が率い、意図したことではないとはいえ少数精鋭となっている鬼組から裏切り者が出るとは考えにくい。すると残る可能性は、あの手裏剣が巧妙な偽者で、鬼組が彼女を襲ったと思わせたい誰かがいる、ということ。であれば。
身軽に体をかわすと足元に手裏剣。少女はそれをハンカチで掴み、走りながらカバンに入れた。
目的地は近い。
そういうことだとすれば、少女はどこからか尾けられていた、ということになる。山に入るまでは全く気づかなかったが。
(じゃ、汀様の家に行くのはまずい…か)
それだ。敵が狙っているのは、水組の中核であるくノ一、汀 (みぎわ) だ。
少女は山道に戻った。周囲を見回し、山を降り始める。
人の気配。前に二人、後ろに一人。
いや、振り向いた少女の目に、見慣れない格好の、背の高い男が映った。見慣れないというのは、忍として、ということである。普通のジャケットにスラックスだが、ほかの 3 人がよくある忍装束であるのとは対照的だ。
(なんでそんな格好を)
これは、その忍装束のことである。
ここはまだ水組の所有地ではない。滅多にないこととはいえ、一般の人間が通ることもあるのだ。深夜ならまだしも、そこで活動するのなら、その背の高い男のような格好をしなければならないだろうに。
ほかの 3 人の装束は鬼組のものではない。特徴を消してあり、どこのものか判別できない。
男は目を隠した覆面。蹴りかかってきた。よける。
少女の素早さがものを言って無事には済んだが、その身のこなしで、相当の使い手だということがわかった。あれで蹴られてはたまらない。
(だったら)
カバンを開け、証拠として汀に見せるつもりだった手裏剣を飛ばす。男は、素手のままそれを叩き落した。
(違う)
今の感触もそうだが、そう言えば、さっきのもそうだ。この手裏剣、この感覚は、前に試させてもらった鬼組のものと同じだ。偽者ではないのか? わからないことが続く。さっきの、汀が狙われている、という仮説にも自信がなくなってきた。
男が飛び込んでくる。少女はそれを越えて飛んだ。麓に向かって走る。とにかく汀のそばから離れた方がいい。
鎖の音。足元に土煙が上がった。すぐに見えなくはなったが、その物体の異様なシルエットに少女は思わず立ち止まった。
男の手に銀色の円。
「ヨーヨー?」
あれは、頭領の風間 唯がかつてスケバン刑事であったころに使ったというヨーヨーではないのか。
「何者だ」
少女は初めて声を出した。男は答えなかった。ほかの 3 人も距離を詰めてくる。日が沈む。その最後の光をヨーヨーが反射した。
暗闇機関は潰滅した筈だ。生き残りが汀とともに総司令官を捜索している、と聞いたが。そのヨーヨーも偶然か?
男が素早く動く。差し出したカバンをヨーヨーが削った。白い線が走る。
少女は考えることをやめた。混乱させる情報が多すぎ、手がかりとなる情報が少なすぎる。今、わかっているのは、彼女が襲われている、ということだけだ。
飛ぶ。ヨーヨーが向かってきたが、これは左手のカバンで叩き落す。右手は、首筋のネクタイを掴んだ。
「や!」
ネクタイが忍装束の一人の首に絡んだ。着地の勢いで引き倒し、腹に肘を入れる。
落ちていた手裏剣を拾い上げ、勢いに乗って放つ。これで二人。
向かってきた。好都合だ。少女は、早口で何事かを唱えた。
「…在、前!」
突風が巻き起こった。砂や小石を巻き上げる。たじろいだところに少女の手刀。
「あとはあんただけ」
いや。
少女は、男の隣に現れた、それとは対照的に小柄な影を見つめた。同じようにヨーヨーを上下させている。格好は同じだが、男か、女か。
それがヨーヨーを構える。
少女は、胸のポケットからボールペンを取り出した。それを引く。ボールペンではなく、教師が黒板やスライドを指すときに使う指示棒――ポインタだった。
ヨーヨーが飛んできた。そのポインタで叩き落す。
「ぐ」
腹部に激痛。信じられない。確かに落としたのに。
ヨーヨーは、その直前、2 つに割れていたのだった。一つは落としたが、もう一つが彼女の腹に入った。
続いて男のヨーヨー。これは辛うじてよけたが、鎖が足元のソックスを切り裂いた。
(やられる)
カバンに持ち変える。体ごと回転して、男に向けてフライング ディスクのように飛ばす。その背後から少女は、伸ばしたポインタを刀のように構えて小柄な方に飛び掛った。
だが、その影は動じなかった。ヨーヨーが少女の手を打った。ポインタが弾き飛ばされる。体勢を崩し倒れこんだ少女に、男が威圧的に立ちはだかった。
つま先で足を蹴る。空振りに終わったが、男は半歩、後ろに下がった。素早く起き上がり、仁王立ちとなる少女。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前。
はぁっ!」
気合とともに左手を振り出す。その指先から、鋭い水流が噴き出した。
「!」
男が顔を覆った。その一瞬に少女は男に突っ込もうとした。
だが、男の方が早い。男はヨーヨーを握った腕を振り上げた。
「それくらいで、ご勘弁を」
別の声がした。
少女はその声の主を見て、呆然と目を見開いた。なぜ。どういうことだ。何が起こっているのだ。
「汀様…」
そして、力尽きたように膝をついた。
(この人が)
少女は、思わずその顔を見つめてしまった。
現代に生きる忍者組織、万を数える風魔全軍を率いる、風魔鬼組の若き頭、風間 唯。
これほど近くで見るのは初めてだった。
雲の上の人、と言ってもいい。
ずっと憧れていた。「陰」との戦いに勝ってこの世界を救い、さらには鬼組の復興を成し遂げた人物。それとは裏腹に、優しげな、ことによっては可愛いと形容してもよさそうな顔立ち。だが、その大きな目には、風魔全軍を率いる者としての覚悟が湛えられている。想像していた通りの空気を持った人だ、と思った。
「唯様の前だぞ」
「は、はい」
汀の屋敷の広間。そう咎められて、少女は慌てて手をついた。
「怪我はしちょらんね?」
正面の唯が言った。
その少女を襲った一団の中の、ヨーヨーを持った小柄な者は、この唯であった。
少女の手の甲には伴創膏が見えている。ポインタを叩き落すためで、手をつぶそうとは思っていないから加減はしたが、それでも無事で済むはずはなかった。
「お答えを。
大した傷ではあるまい」
「…はい」
汀の問いに、不承不承という感情を隠し切れない声で答える。
まだ、事の次第を知らされていない。あるいは、気づかないところで自分がミスをし、そのための罰かとも思ったが、それでも鬼組の頭まで出てくるのはおかしい。それに、汀はこんな芝居がかったやり方で叱ったりはしない。
なぜこんなに人がいるのだ。唯の脇にいるのは、噂に聞く親衛隊の赤雲隊だとしても、その男は一体、誰なのだ。ヨーヨーを持っていた背の高い方はこの男らしいが。
(なんだか、腹たってきたな)
しかし、目上の者にそんなことを言うなど許されないことである。
「ご挨拶を」
「遥汕 (ようせん) 様配下、澤里 悠希 (さわさと ゆき) にございます」
「顔をあげちくり」
「は…」
「唯様のおっしゃる通りに」
汀に言われて、ゆっくりと体を起こす。
緊張していることは唯にもわかった。この少女にしてみれば、遥汕というリーダー、汀、そして、水組頭の凌雲がいて、風間 唯はさらにその上の存在。恐縮するな、というのは無理な話であったろう。
だが、その切れ長の目は力強かった。気に入った。
(怒っとるのかもしれんけど)
悠希はまた見とれそうになった。人をひきつける容姿。だが、いざという時には、まさに不動明王とも形容される表情で全軍を指揮するという。その幅の広さもまたリーダーとしての資質、ということになるのだろうか。汀が心酔するのも当然だと思った。
それはそれとして。
(早く説明してよね)
どうやら、怒られる、とかいう話ではないらしい、ということはわかった。では何なのだ。
「悠希。
学籍情報管理法案、って聞いたことあるじゃろ」
「はい」
「どこまで知っちょる」
「高校生や大学生に通し番号をつけて管理下に置こう、という企みと聞いています」
「そう。
でも、それだけじゃなか。
この学籍法は、10 年後に効き始める。高校生の、反抗したいさかりのころから管理と監視をされることに慣れてしもうた人たちが社会に出て、子供ができ、次の世代を育てる。その頃には、全ての人々の行動を監視できるシステムを作ろうとしても、誰も抵抗せんようになっちょる。
そうなっては、悪い奴らの思い通りになってしまう」
「はい」
「そこで、高校生たちの間で反対の運動を起こしたい」
悠希は、返事をするのを忘れた。唯が言おうとしていることがわかったからだ。
「もうわかったようじゃね。
それで、あんたの力を試させてもらった。
尾行に気づいた鋭い感覚、手裏剣が風魔のものだと素早く見て取った観察力、汀さんの屋敷から離れようとした判断力、武器を失っても向かっていく闘志。
合格点じゃ」
「は、はい。
かしこまりました」
再び平伏する。大人たちが笑った。
「悠希、唯様はまだ何もおっしゃっていない」
「は、はい」
「勘が鋭いのもええことじゃ。
…。
悠希、あんた、自分の名前は好きか?」
唐突な問いであった。
「は、はい?」
「無礼だぞ、悠希」
「申し訳ありません」
唯は立ち上がって、悠希の前に座った。
「きれいな名前じゃ。
じゃけんど、しばらくは別の名前を名乗って欲しい」
「別の名前でございますか」
「そう。
その名前も作戦のうち」
「はい」
「あんたの新しい名前は――『麻宮サキ』じゃ」
悠希は顔を上げた。今、なんと言った?
唯の目が悠希を見つめていた。優しさと、いくらかの悲しみ。
「そ、それは」
悠希は後ろに下がった。
「それは、かつて唯様が『スケバン刑事』としてお使いになった、由緒あるお名前。
私などが」
「その件は、もう片付いちょる。
言ったじゃろ、あんたは合格したんじゃ」
「ですが」
「あんたの性格や、技や、どういう風に育てられたかまで、全部、汀さんから聞いちょる。その上であんたを候補にした。
最後に、実戦でどうなのかを、あたし達と天城さんで確認した。あんたには、それを名乗る資格がある。
そうじゃな、成美」
「はい」
ネクタイで首を狙われたのは、赤雲隊の一人、成美であった。
「空中で、立てた襟の間からネクタイを引き出し、標的に向かって放つ。あの素早さは、さすがに水組と」
「申し訳ありません!」
畳に額をこすりつける。知らなかったとはいえ、唯の親衛隊の首を締めようとしてしまった。
「それはえぇよ。
美芹、風のことを話してやって」
「はい。
九字の扱いも慣れている様子。ただ、広範囲に起こしたいのか、鋭い突風を吹かせたいのか、そこを意識してはっきりと使い分けることができるようになれば、もっと幅が広がるでしょうね」
「は…ありがとうございます」
「私が最後にくらったあれは、大技なのですか?」
「は、はい」
男が訊ねる。汀が口を挟んだ。
「『流刃破 (りゅうじんは)』は、手練 (てだれ)の者が使えば体に跡が残るほどの強さにもなりますが…。
悠希にはまだ荷が重いようだね」
「申し訳ありません」
「えぇよ、それはこれからの精進じゃ。
顔を上げちくり。まだ説明することがある」
恐る恐る、上げてないわけではない、という角度にまで悠希は上体を起こした。
「あんたにはどこかの高校に入り込んでもらう。まだ選考作業中じゃけんど、学籍法の成立に先立って身分証の実用実験が行われる地区のどこかじゃ。そして、その身分証を使いながら、それがどれだけ危険なものかを仲間達にアピールして、反対運動を扇動するんじゃ」
「はい」
「えぇか、麻宮サキは原則的に一人で行動する」
「一人、でございますか」
「そう。
賛同者は現れるじゃろう。あんたを友人と呼ぶ人が現れるかもしれん。じゃけんど、奴らは、4 年前の集健法のときと同じように、あんたを排除するために裏の方から手を回してくると思った方がえぇ。命を狙われる可能性もある。それにまきこんではいかん」
「はい」
「風魔全軍が学籍法をつぶすために動く。あんたの活動は、その一つじゃ。
最大限のバックアップはする。あんたが必要と思うものはできるかぎり用意する。頭数がいるんなら援軍も出す。じゃけんど、あたしたちは年を食った。学校の内部には入れん。具体的な行動の詳細は、あんたの才覚にかかっちょる」
「…はい」
「天城さんのことは、知っちょるな」
そうか。この男が、暗闇機関の生き残りか。道理でヨーヨーを扱えるわけだ。
「お会いするのは、初めてですが」
天城が軽く頭を下げた。
「『麻宮サキ』がどういうものかは、暗闇機関の人がよく知っちょる。それで、あんたのサポートをお願いした。
暗闇司令を捜索する、っちゅう大事な仕事があるから、いつも、というわけにはいかんけど、そこは汀さんと上手く調整してもらうことになっちょる」
「はい」
唯は、悠希を追いかけるように、前に座った。
「世の中には、学籍法とは無関係に、『麻宮サキ』だというだけで反応する者もおる。あたしが前にぶっ倒した奴の生き残りがおるかもしれん。あたしは、あんたにそれも押し付けることになる。
無理強いする気はない。嫌じゃったら断ってくれてええ」
「そのような」
「嘘と遠慮は許さんよ、悠希。
これは、戦いなんじゃ。納得できんことを抱えたままでは、あんただけでなく、ほかの、罪もない誰かが死ぬかもしれん。あたしや汀さんに対する遠慮で、断りにくくて引き受けた、なんてことは、絶対に許さん」
沈黙。
悠希の中で、さまざまなことが巡った。
できるだろうか。
だが、これは汀の指名。そして、かつて麻宮サキであった唯の指名。二人は、できる、と判断したのだ。これは信じてもいいのではないか。
それに、暗闇機関のエージェントが支えてくれる。心強い。得るものもあるはずだ。
何より、これは風魔全軍が立ち上がる戦いなのだ。自分もそれに加わるべきだ。集健法の時のように、半人前だから、と脇に寄せられ、汀が苦しい思いをしているのを知りながら指をくわえて見ていた、あのようなことになってしまっては意味がない。
「一晩、考える猶予をやっても」
「やらせてください」
「悠希」
「風魔の一員として、『麻宮サキ』の名前に恥じない働きをいたします。
どうか、この悠希にお命じください!」
「いいんじゃね。
あんたは、同じ年の若者たちに隠し事をしながら戦う。あんたの戦いは、ひょっとしたら他の人よりも辛いことになるかもしれんよ」
「それが忍。
もとより覚悟はできております」
平伏したまま、はっきりとした声で宣言する悠希を唯はしばらく見つめていた。
そして、汀を振り向く。汀が頷いた。天城も頷いた。
「わかった。
悠希、いや、麻宮サキ。
あんたの力に期待しちょる」
「はい!」
まだ、梅雨に入る前の季節。
こうして、風魔の麻宮サキが復活した。
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