ある日の昼休み。教室に 3 年生の男子生徒が尋ねてきた。
「大島さん、っているかな」
知らない上級生の訪問に、サキ達とおしゃべりをしていた大島はいくらか緊張した顔で席を立った。
「なんだろう」
「どうしたのかな」
見ていると大島が当惑している。
「告白だったりして」
「え、ほんと」
だが、大島は首をひねりながらこちらに戻ってきた。
「ね、あんたたち、今日、暇?」
「どうしたの。
コクられちゃった?」
「何、言ってんのよ。昼休みに教室でそんなことするわけないでしょうが。
こないだの、図書館訪問の話、聞きたいんだって」
「図書館訪問の話?」
「そう、なんか興味あるんだって」
「まぁ、いいけどさ」
「麻宮さんは」
「いいよ」
「真鍋ー、あんた今日は?」
「オッケー」
返事が早い。もう一人はいなかった。
「杉山は後でいいや。
じゃ、放課後、空けといてね」
その少年は、藤井 隆久と言った。サキ達は彼の教室に集まった。すでに受験体制に入っている生徒も多く、3 年生の教室は空くのが早い、ということだった。
「今日はどうもすいません。
本当は喫茶店とかでお茶でも飲みながら聞くべきだと思うんだけど、僕もあんまり財布に余裕がなくて」
と、笑いながら言う。比較的体格は立派だが、運動部というわけではないらしい。さわやかな印象だった。
「StID のことを教えてほしいんだ。僕達 3 年生はもう受験だのなんだので使う機会はほとんどないから。
どう、やっぱり便利なもの?」
と聞かれていきなり答えられるものでもない。2 年生たちの視線は班長の大島に集まる。
「確かに、便利なんだと思います。あのカードを滑らせるだけで色々とできるし」
「出入口とか、やっぱり、そうなってるわけ?」
「はい。ゲートがあって」
「ふうん。
やっぱり、盗難防止って事なのかな」
「そう言ってました。
盗まれる本って結構、あるんだとか」
「年間 1000 冊くらいとか言ってたよね」
「それは公立の図書館の話でしょ」
藤井は何度も頷きながら腕を組んだ。
「盗難ねぇ。
公立図書館だとそんなに被害に遭ってるんだ。1000 冊かぁ。1冊 2000 円だとしても、200 万円だ」
「200 万!」
驚いた声を出したのは真鍋だった。
「辞典とか専門書みたいなのだともっと 2000 円じゃきかないだろうねぇ」
「上限って、5% だっけ?」
と宮内。
「え、なんの話?」
「なんか、図書館にも業界団体みたいなところがあって、本がなくなる割合が 5% くらいだったら、それは許容範囲って決まってるって話で」
「5% が許容範囲?」
藤井が声を上げた。
「5% 位なら、そんなもんだ、ってことにするのか。ひどい話だなぁ。そう思わない?」
ひょっとしたら藤井は熱血派なのかもしれない。
「蔵書が 10 万冊だとすると、5000 冊。さっきの計算だと 1000 万円だよ」
「1000 万!」
「僕らが 1 万円持ってたとして、\500 くらいならなくなってもいい、とは思わないよねぇ」
「そうですよねぇ。\500 あったら飯食えるもん」
「ねぇ。
だとすると、StID カードは一般の図書館でも使わせるようにしないとダメなんじゃないかなぁ」
サキは、的外れな反応をした杉山から、藤井に目を戻した。
「あ、ごめんね。君たちの見学の話だったね。
後はどうかな」
大島は、新聞の縮刷版の話をした。自分が生まれた日の新聞のコピーをもらえたのがうれしかったらしい。藤井は楽しそうにその話を聞いていた。
(でも、返事はしない。あたしたちにしゃべらせるだけだ)
サキの中に疑念が生まれてきた。
話は、昼食に移る。
「あ、いいなぁ。おごってもらったんだ」
「国の費用だとか言ってましたから」
「僕も行ったら、大学食堂のカレー食べさせてもらえるかな」
「うまかったっすよ」
「あんた、いつもカレーじゃないの。味なんかわかるの?」
「こいつねぇ、カレー オタクなんですよ。ラーメン屋行ってもソバ屋行ってもウドン屋行ってもカレー」
「パン屋でも」
「当たり!
藤井さん、頭いいっすね」
「わかるよ、それくらい」
と笑う。嫌味のない笑顔。
「そうか、StID でそんなことまでできるんだ。
銀行の口座とか登録しとけば、買い物もできるようになるよね、きっと」
「職員の人はもうそうなってる、って話ですけどね」
「あれ、そう言えば、同じ機械でやったの?」
「そうですけど」
「あ。ってことは、StID カードと、その人たちの身分証って同じ形式なんだね、きっと」
天城と同じ事を言う。サキの警戒は強くなった。
「じゃさ、身分証とか一々交換しなくて済むのかもね」
「って?」
「僕らは生徒手帳で、大学生は学生証で、大人になったら社員証ってバラバラじゃない。それだと面倒だから、一旦貰った StID カードは一生使える、って感じにしとけば楽だよね。
個人がその都度、身分証の交付を受けるんじゃなくて、会社とか学校とか、そっちの方で StID を借りる、っていうかさ」
「あぁ、そうですねぇ」
「でも、なんか設定ミスってたみたいですよ」
よく言った、とサキは思った。持ち出そうかどうか考えていたことを、大島が言ってくれた。
「設定ミス?」
「最初、入れなかったんですよ。それで職員の人が慌てて走ってって、なんか直してました」
「あれはドキドキしたね、そう言えば」
「まぁ、実験段階だからしょうがないよね。
でもすぐに直ったんでしょ」
「はい」
「それは逆にメリットなんじゃない? すぐに直るって言うのは」
「それは、そうかも」
「食堂の機械もそうだったよね。蓋開けてパコパコってやってたもんね」
「あっという間だったんでしょ」
「はい」
後はしばらく雑談が続いた。サキは一言も発しなかった。
「StID Supporter がいた?」
「まだ証拠はないけど」
その夜、サキは天城に報告した。尾行して調べた連絡先のメモを渡す。
「3 年生が図書館訪問のことに関心を持つって時点で変だけど、話し方が不自然だった。あれは誘導だったと思う」
「StID カードは便利なものだ、って印象を与えようとしてた、ということですか」
頷く。
「本の盗難のこともそう。200 万だ 1000 万だって一々金額にして。あたしたち高校生にすれば 200 万は想像もつかない大金。びっくりさせるには十分だ。でも自治体の予算から言ったらそう大した額じゃないはず。あ、勿論、本を盗まれた方は大変だと思うけど…」
「そうですね。二度と手に入らない本、というのもあるでしょうし」
「それも言ってた」
「だから、全ての図書館利用者は身分証の提示を、と持っていける…」
天城はテーブルに肘をついた。
「彼は、あなた方の出したレポートを読んでいるのかもしれませんね」
「え」
「カレーの話が出てるでしょう」
「あ」
「まぁ、カレーのない学食もないでしょうから、不自然ではありませんが、行動一覧を添付した報告を読んでいるからつい『カレー』が出てしまった、と見ることもできます」
「レポートを読んでるんだとすると、まさか、先生にもそうやって働きかけ」
「そうかもしれません。
この藤井という少年が StID Supporter というの、ありそうですね」
「やっぱりいたんだね、周議館 (しゅうぎかん) にも」
「支持率から考えて、いて当然ではありますが。
よく彼のことに気づきましたね、サキ」
「いや、それは向こうから来てくれたんで」
「藤井があなたのことに気づいていると言うことは」
「わかんない。
自己紹介はしたけど、特に表情が変わったっていうことはなかった、と思う」
「用心に越したことはありません。いつ、境田や塚本からあなたのことが知らされるかわかりませんし。
彼の素性については私が調べます。あなたはしばらく、離れたところから彼の監視を」
「うん」
クラス内をそれとなく当たってみると、1 学期の間に StID を使った体験学習をした班のメンバーには藤井からコンタクトがあったことがわかった。話の内容から、やはり StID カードの有効性を強調していたようだ。
藤井は転校生ではなかった。最初から周議館にいたのだが、どこかの段階で StID 推進派になったのだろう。
天城の調査では、両親に怪しいところはない。詳細な交友関係はこれから調査するが、ほかの StID Supporter に影響を受けた、ということも疑われた。
(ケータイも 2 つ。
一体、何に使ってるんだか)
後をつけているサキ。
それも見当がついている。新しい方の電話は、彼の名義ではなく、しかも、一括購入されたうちの一つだと言うことがわかっている。さすがに購入者は境田や塚本、まして「シアン」――首都検察庁 特捜部 青少年特別対策室――ではなかった。
(当たり)
放課後、地下鉄を乗り継いで、藤井は首都検察庁のビルに入っていった。間違いない、藤井 隆久は StID Supporter である。
正面で待っているわけにもいかない。もとより、こういう大きなビルに入るような人間を一人で尾行する場合、見失ってもやむを得ない――最大限の努力をした上ではあるが――ということにはなっている。増員はまだ先、対象や作戦内容が絞り込めた後の話だった。サキは裏側にあるコーヒー スタンドに入った。
一体、何人いるのだろう。アイスコーヒーを手に、外に向いたテーブルに寄りかかりながら考える。
転校生の数はわかっている。30 人強。だが、それは「学籍法に対する支持率の高い高校への転校生」の数だ。全員が StID Supporter と決まったわけではない。確認できているのは 10 人程度に過ぎなかった。
逆もある。StID Supporter が転入、これから支持率が上がっていく学校だってあるだろう。
そして、最初からその高校にいた生徒は。これには手がかりがない。サキが藤井と出合ったのは偶然で、おそらく、StID Supporter であることがわかっている生徒たちを監視して交友関係をしらみつぶしに当たっていかなければならない。汀の指示で水組の忍達がやってはいるが、仲良さげに話しているからといってただちに StID Supporter だ、と言えるわけではない。時間のかかる作業だった。
そして、先日の盗聴内容から考えて、塚本は StID Supporter の人数を増やそうとしている。
などと考えていると、また焦りが産まれてきた。本当に、わかっていないことが多すぎる。
サキの視界の隅を白いものが通った。後ろを通った客がレシートを落としたのだ。それを拾い上げて、落としましたよ、と言おうとする一瞬、サキは口を固くつぐんだ。
終了 5 時
急に足元に意識が行ったわけがわかった。これを落としたのは水組の忍だ。書き損じに見せかけているが、先頭にあるのは梵字。StID Supporter を監視していた者だろう。
深呼吸する。焦る必要はない。
(あたしの任務は、周議館高校を反対派にすること。
そのために今は、藤井をきちんと監視するんだ)
仲間――というより、おそらくは先輩たちを信じて、自分のターゲットを追えばいい。
(これまた当たり)
サキはそのまま通用口を見張っていた。退庁時刻も 5 時、正面はそれなりに混む。それと、何人いるのかは知らないが一人や二人ではない数の高校生が団体で出てくれば目立つ、別の出口を使うのではないか、と考えたのである。通用口も一つではないのでイチかバチかではあったが、藤井はサキの見張っていたドアから出てきた。
距離をキープして尾行を再開する。
後ろの方で同じように動く陰があった。あれも忍だ。
藤井は、来るときとは別の道を歩いた。地下鉄に乗るつもりはないらしい。
やがてビル街が終わる。住宅街、と呼ぶには抵抗があるが、そこにあるのは紛れもなく民家であった。
(この都心に、普通の家…)
ただ、どうやら人はいないようである。隣が更地になっているのはビルでも建てるからか。
サキはその角に留まった。考えるまでもない。こういう場所に藤井がやってくる理由は二つしか考えられない。
ここに、StID Supporter のための施設があるか、サキを倒すために誘い込んだか。
おそらく後者であろう。サキはカバンを左手に持ち替え、胸のポケットのポインタを確認した。ゆっくりと歩いていく。
その更地に入った瞬間、4 つの陰がサキを取り囲んだ。
「3 つ連続で当たりだ」
「尾行があまり上手くないようだね、麻宮君」
「あんた相手に本気出すこともないかと思って」
正面の藤井は、先日のさわやかさを捨てていやらしく笑っている。
「塚本さんに寄れば、君は要注意人物なんだそうだ。僕もさっきまでは知らなかったけどね。捕まえて連れて来い、という指示があったよ」
答えない。四方に注意を払う。どれも、藤井と同じように立派な体格だ。
「会うのはまだ二度目で、君がどんな人なんだか、僕も興味がないことはないよ。塚本さんは詳しく教えてくれないけどね」
喋りすぎだ、とサキは思った。この言葉だけで、どれほどの情報になると思っているのだ。口調とは裏腹に、藤井は悪事の実行には向いていない。尤も、戦いの前に余計なことを喋るな、とはサキも汀から言われてはいる。参考にしておくよ、と思った。
「さて、頼みますよ、StID Soldier の皆さん」
藤井が一歩下がる。他の 3 人がサキを取り囲んだ。
(これが例の「別働隊」か)
気迫は伝わってくる。だが、問題にはならない。
(術はいらないな)
村下のように、サキの活動を暗闇機関の復活と結びつける者がいる。その疑いをできるだけ晴らさないようにしておこう、という方針がある。機関が復活したのだ、ということが広まれば、陰謀の実行をためらう者と、こちらに協力する者が現れることが期待できる。そのためには、風魔の関与は隠した方がいい。それは、風魔と機関が一緒に動いているのだ、という形を明確にできるときまで――つまり、暗闇司令の行方がわかるまで待つ、ということになっていた。
つまり、使わずに済むものなら、風魔の忍としての術は使わずに済ませたい、ということである。
問題は数だけだ。4 人であることを忘れなければよい。
一斉に飛び掛ってくる。サキは左手のカバンを思い切り払った。大きな音がして、左側の男の顔に当たる。金具で頬が切れた。その少年を飛び越える。囲みは破れた。
同じようにそれを飛び越えて、手刀が飛んできた。カバンを差し出す。悲鳴が聞こえた。鉄板が入っているから、これは効いたはずだ。
そうしている間に蹴り上げる。右、左。その少年が倒れた。
頬に傷のできた少年がやってくる。それを迎えようとしたサキの背後から手が伸びてきた。
「!」
動きが封じられる。両頬を打たれた。
「羽交い絞めなんてね!」
その声とは裏腹に体から力を抜く。そのままやわらかくしゃがみこむと簡単に抜け出ることができた。そのまま足を回す。二人ともバランスを崩して倒れた。
藤井の顔が見えた。余裕を失っている。
「覚えておけ!
麻宮サキってのはこういう女だ!」
懲りずに後ろから飛び掛ってくる。サキはその場で回転、少年をかわすと後ろから首筋に手刀を入れた。
あと一人。これは、最初にやられたのが怒りに火をつけたのか、猛攻だった。拳が、左、右、左、と飛んでくる。サキはそれをかわし続けた。
距離を取ると蹴りこんでくる。上体をそらしてよける。
(意外に)
あるいは、これが彼らの実力なのかもしれない。サキを侮って不意打ちをくらい、力を発揮する余裕がなかった、ということなのだろう。
足も高く上がる。訓練を受けているのは確かだ。
(だからって)
「何時までも付き合ってる気はないよ!」
もう一度、蹴りこんでくるところを両手で払う。体が回ったところで、裏から膝を蹴り飛ばすと少年はしりもちを着いた。その腹に肘。
「最後はあんただ、藤井」
鋭い視線で藤井の足を止める。サキはゆっくりと近づいた。
「ま、待て」
答えない。
「暴力はよくないぞ、麻宮君」
無言のまま距離を詰める。
「やめろ」
胸倉を掴む。
「僕に怪我をさせれば、君は退学だぞ!」
悲鳴のような情けない声。だが、サキは動きを止めた。
「なんだって?」
「周議館高校は一切の暴力を否定する。
君が僕に怪我をさせれば、即、退学だ。それでもいいのか」
「お前…」
「いいのか、僕は黙ってないぞ。
それとも口封じのために僕を殺すか?」
「お前は――!」
「退学になりたくなかったら、その手を放せ。
放せ。
放せよ!」
ゆっくりと左手を下ろすサキ。だが、その目には怒りと嫌悪感が燃え上がっていた。下らない男に妙な力が与えられている。サキはそれに手出しをすることができないのだ。
「は、はは、ははは。
どうだ、麻宮サキ。
君は僕には指一本、触れることができないんだ」
「覚えておくよ。
あんたも、周議館には麻宮サキがいる、ってことは覚えておくんだな」
「は。
君は、僕が StID の普及活動をするのを黙って見ていればいいんだ」
サキが追いかけてこないことを確認しながら後ずさりっていく藤井。その顔がひきつってはいるが、サキに対する優越感がにじんでいる。
別に、周議館に対する愛着などない。だがサキには、周議館高校の学籍法に対する姿勢を転換させる、という任務がある。今の時点で退学になってしまうわけにはいかない。サキは唇をかんだ。日が暮れる間、拳を握ったまま、立ち尽くしていた。