静かだった。時折、車のエンジンの音が聞こえるくらい。かすかに、犬の声もした。
通りをうっすらと照らす街灯、その間には、家々やアパートの窓から光が漏れている。それも少なくなっているが。
ここはれっきとした政令指定都市で、確かに深夜を回っているが、ここが静かなのは、幹線道路からは離れた、旧街道沿いの古い住宅街だからだ。
古くから住んでいる人の多い区域ではあるが、時代が移るにつれて、人は中心区域に移動していく。空いた場所にはアパートなどが建って、新しい住人が 5 人、10 人という単位で増える。おそらく、建物を数えていけば、1/3 程度がアパートになるだろう。そうして、地域のつながりの濃さが失われていくが、かと言って、完全に失われたわけではない、という場所だ。
汀はタバコの火をつけた。
自分が吸うのではない。最終バスのとうに出てしまった住宅地で一人で立っている人間が怪しまれないはずはない。自分は「ホタル族」である、という顔をするためだ。尤も、ホタル族の大半は中年男性であろうから、妙なことに変わりは無いのだが。
(暖かい…)
気温の話ではない。ここには、毎日を誠実に暮らしている人が数多く住んでいる。
この街灯だって、ほかの地域と色を変えてあるわけではない。なのに暖かく見えるのは、この町が暖かいからだ。
彼はやはり、いや、あるいは無意識にぬくもりを求めていたのかもしれない。彼も、朝の間にゴミを捨てに行き、近所の住民と挨拶を交わしたりしたのだろうか。
胸もとの携帯電話が震えた。尾行を続けていた部下からの連絡だった。もうすぐやってくる。汀は一旦、タバコの火を消し、自動販売機の陰に身を隠した。
視線だけは、その方向に向ける。汀は息を飲んだ。そして動けなくなる。
左手はズボンのポケット。右手は空いている。いや、空けてあるのだ。一見、単に歩いているだけのようだが、あたりの様子をうかがっているのがわかる。全く油断していない。
どちらかと言えば足取りは速い。これは昔から変わっていなかった。
(随分、髪が伸びましたね、零殿)
そして、痩せた。頬骨の形がわかる。
1 年。
最初に調べたのは、いわゆる「胡散臭い」地域だった。身分を証明しなくとも、宿や、アパートの部屋などが提供される地域。犯罪者をはじめ、身を隠す、という話があれば真っ先に連想される地域である。だが、見つからなかった。
次に、そこを起点にして、都会と呼ばれる地域。見慣れない者が急にやってきても誰も注意を払わない場所だ。
田舎と言われる地域は検討もしなかった。よそものが現れれば、直ちに噂になるからである。彼のように、きちんとした身分を持っていない者が受け入れられるとは思われなかった。
そして、このような「普通」の地域は汀達にとっては盲点だった。考えてみれば、零――つまり、暗闇司令にとって、様々な証明書を偽造したり、それを入手したり、というのは難しいことではない。身分を持っていない者、と考えるのは間違いだ。
となれば、零が隠れている場所は、世界中のどこか、ということになってしまう。
それ以外にも、捕らえられている可能性、別の名前を得て一般人となっている可能性、体を壊しどこかの施設に収容されている可能性、最悪の場合で、既に死んでいる可能性…。完全な調査は不可能だった。
(許していただけますか)
集会健全化法のときには、裏切られた、という思いから抜け出せずに、随分とひどい言葉を吐いた。
その後、残ったメンバーを探している間は、本人が協力を拒んだため手伝うことすらできずにいた。しかも、やっと落ち着く兆しが見えたところでの失踪。汀には償いをする機会がなかった。
今回も余計なことをしているのではないか、という心配はある。それがなんであれ、本人は何か理由があって姿を消したのだ。無理やりに探し出すのは間違いなのかもしれない。
だが、放っては置けなかった。
零を理解した、とは思っていない。彼はそう簡単には自分の気持ちを明かさない。
だが、潰滅に瀕した水組に再起の道筋をつけてくれた零に対する感謝と、その厳しい姿勢に対する尊敬の念が汀にはある。零の方でも、汀や水組を戦力としてカウントしてくれていたと思う。
暗闇司令に戻れ、とは言わない。だが、今の姿が彼のあるべき姿だとは思えない。せめて、居場所を改めて得るための手伝いをしたい。
零は角を曲がった。
それを追う。
音がしない。汀は足音を立てないようにしているし、それは零も同じだった。汀は走り出して手を取りたい衝動に駆られた。音がしないのは、自分が幻を見ているからではないか、という気すらする。
もう一度、角を曲がる。汀も後を追った。
「!」
待っていたのは銃口だった。
汀は動かなかった。そのまま零を見る。前髪が目にかかっていたが、その目に驚愕が浮かんだ。
「覚えていていただけたんですね」
自分でも予想外のことを言った。
「すっかり嫌われているかと――」
汀の言葉が途切れた。零の目に浮かんでいた驚愕は消え、冷え冷えとした光に変わっていた。それは、「氷」と揶揄されることのあった零の昔の冷たさではなく、乾いた冷たさであった。
「お戻りください」
体中から気力を集めてこないと言葉が出てこない。その目を見ていると、そんな気持ちになる。
「皆さん、心配なさっています。
激務であることはわかっています。そのまま戻れなどとは申しません。せめて、一度お帰りいただいて、ご相談の上で――」
零は動かなかった。銃口はまだ汀の額を向いている。
もうだめなのだろうか。零はもう私たちを見捨ててしまったのか。汀は、唇が震えるのを止めるために深呼吸しなければならなかった。
「お願いです。
私の落ち度については、どのようにもお詫びいたします。一度、お戻りください。お願いです、零殿。どうか」
「帰れ」
数年ぶりに聞いた。昔と変わらない声だった。だが。
「零殿」
答えない。汀は立ち尽くした。
ほんの数秒か、あるいは、十分も経ったものか。どこかで空き缶の音。
「また…参ります」
ゆっくりと頭を下げる。顔を上げた後も、零はそのままだった。わずかな希望も砕かれた汀は、そのままきびすを返した。何歩か進んだところで、零も去っていくのがわかったが振り向かなかった。
角を曲がって、バス停のある道に出た。
人通りは無い。だから構わない、とも思う。だが、それでも、それは目立つ行為だ。
部下も間もなくやってくる。見られたくない。
しかし。
汀の頬を涙が伝った。
「汀様が!」
サキはダイニングの椅子を飛ばすように立ち上がった。
零の、つまり暗闇司令の居場所がわかった、という情報が天城の元に入ったのは、汀が接触した翌日の夜だった。
「私が行きます」
「天城さん」
「今日はもう新幹線はない。明日ですね。水組が監視しているそうですから、車で飛ばす必要はないでしょうし」
「あたしも」
「え?」
「あたしも行く」
天城はサキの目を見つめた。
暗闇司令のことなど、今のサキが知る必要はない。寧ろ、分けておくべきことだった。風魔と機関は今後も協力していくだろうから、出会うことはあるかもしれないが、それはそのときでいい。今、わざわざ持ち場の周議館高校を空けて会いに行く必要はない。
だが、天城達は暗闇を必要としている。残存メンバーを集めるには彼が必要だ。その説得材料として、現在の「麻宮サキ」は有効だろう。
(会わせてはならない、ということもない…)
「天城さん、お願い。あたしも」
「一つ、約束してください」
「なに」
「責めたりしない、と」
彼女が行こうと思っているのは、天城達が暗闇司令に拘泥しているのはなぜか、それを、本人と会うことで確認したい、という気持ちがあるから。そして、自分が尊敬するリーダーの汀が辛い思いをしたことがわかったからである。今回の作戦の為に、という視点ではなかった。
「なんでですか」
「それを約束してもらえないのなら連れては行けません」
「汀様にひどいことをした」
「わかります。
でも、暗闇司令もまた私の上官なんです」
サキは答えに詰まった。
「あなたが暗闇司令のやったことに憤りを感じることまでは止めませんが、それを今の時点でぶつけることは私が許しません」
「天城さん…」
「司令が復帰して作戦が落ち着けば時間はできるでしょう。それまで待てますか」
サキはしばらく考えていた。そして椅子に座る。
「わかった。
でも、あたしは暗闇司令がどんな人だか知りたい」
「…」
「こんな言い方をしたら天城さんは怒るかもしれないけど、あたしは汀様や唯様たちがどうしてそんなに暗闇司令のことに拘るのかわからない。それを、どうしても知りたい」
「…。
いいでしょう。
服を選んでください」
「服?」
「コンタクトを取れる場所は、相当に胡散臭い区域です。若い女の子が入っていけるような場所ではありません」
昼間の新幹線は、サキが想像していたより利用者が多かった。ほとんどが出張の会社員のようだったが。
サキは結局、大きめのジーンズとジャンパーで体の線を隠すことにした。髪はどうしようもないので、途中にあったコンビニエンス ストアで同じく大きめのキャップを買い、そこに押し込むことにする。
零は「探し屋」として生きていた。
人を探して欲しい、という依頼を受け、機関で学んだ方法を駆使して、その人間を探し出し、身柄を引き渡す。本来ならば、「殺し屋」とでもなるところで、実際に、そういう部類の人間の捜索を依頼されることがほとんどだったが、流石に、無関係の人間を殺すことはできなかったようである。
これは盲点だった。水組が、零を捜索しているうちに、通称を“K-NIGHT”という「探し屋」に行き当たったのである。藁をも掴む気持ちで、捜索を依頼しようと考えて“K-NIGHT”のことを調査したら、それが当人だった、という安いマンガのような話である。
通称を得るまでになったのに 1 年も見つからなかったのは、居場所を複数持ち、しかも頻繁に変わるからであった。“K-NIGHT”に依頼される人探しに、胡乱な依頼者と胡乱な行方不明者が絡む以上、周囲にトラブルが生じる可能性は高い。そうなる度に住む町を変えざるを得なかった。
仮眠しておけ、と天城は言ったが、本人はずっと起きていた。
サキも同じだった。
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