「知ってるよ」
「え?!」
「嘘!」
「麻宮さんがなんで!?」
随分な言われようだった。
藤澤さつきと言えば、世界的な名バイオリニストである。本拠地こそウィーンに移したが、先月から日本公演で全国を回っている。新聞やテレビで大きく取り上げられているから、聞いたことがない、という方がおかしい。
「麻宮さん、新聞、読むようになったの」
和実が言った。相変わらず根性が悪い。
どうやら、麻宮サキは短気で、かつ、正義感にあふれた「侠気 (おとこぎ)」のある女だ、という評価はすっかり定着してしまったようだ。先日、艶っぽい噂が流れたりはしたが、それは意外性があるからこそのことで、このようにバイオリニストの名前を知っている、というのはやはり信じがたいことのようだった。
「ちょっと曰くがあってね」
「なに、『曰く』って」
「今度、会うことになってる」
「なんで!」
「どうして!」
「一々声がでかいんだよ、あんたたちは!」
藤澤さつきが行っているツアーはただの演奏会ではない。
現在、学校における音楽の授業時間は減る一方である。授業の一環として行われる、演奏会の鑑賞などは激減した。いわゆる「ゆとりの時間」「総合学習」は、学年が高くなるほど、学力強化に向けられる。これでは音楽教育が死んでしまう、と危機感を抱いた藤澤は、「皐財団」を設立し、音楽教育に対する支援を打ち出した。そして自らも、時折、日本にやってきては、彼女のランクから言えば破格の料金で、児童や生徒を対象とした演奏会を開いている。
その演奏会は時折、学校や、地域の協賛を得ることができ、学校全体、あるいはある地区全体の生徒を招待する、という形式になることがあった。それが、凰鳴学園を含むその地域で開催されることになった。
だが、この地域には、すでに連合生徒会に組み込まれている城西第三高校がある。北島 寛子の時のような、わかりにくい理屈で狙われる可能性は否定できない。サキは、その演奏会の間、藤澤さつきの護衛をすることになった。
クラスメートには、知り合いの知り合いの知り合い、というつてで、暇そうな奴がいたら手伝いに出せ、と言われた、とごまかした。それでもちょっとした騒ぎにはなってしまった。あたしも、と言うのを断るのが一苦労だった。
京とサキは藤澤の家を訪ねた。背の高い窓、上品な調度。音楽家と聞いて想像した通りの豪華な家だった。「お手伝いさん」や「執事」がいないのが不思議なくらいだ、とサキは思った。
二人が通されたのは、藤澤が練習する部屋だった。防音が期待できるし、安全だ。
「あ、OCTAVO」
サキはそのピアノの銘板を読んだ。
「知ってるのか」
「いい音なんだよ」
「よくご存知ね」
藤澤さつきだった。音がしないのは、隠れてやってきたからではなく、身のこなしが上品だからだ。背は高くないのだが、そう見えるスタイルだった。クラシックの演奏はドレスが基本だが、この藤澤の場合、和服も似合いそうである。
「お邪魔しています」
京が、続いて、慌てたようにサキが頭をさげた。
「こちらが、麻宮さん?」
サキは、はじめまして、とまた頭を下げた。京と藤澤はすでに面識がある。
「ピアノ、お弾きになるの?」
「子供のころに、少し。5 年くらいですけど」
「まぁ。
どうしておやめになったの?」
「あの…外を走り回ってる方が、楽しかったもんで」
藤澤は優雅に笑った。
「そうよねぇ。私も小学生のときはそうだった」
サキはほっとしたように緊張を解いた。
「あら、ごめんなさい。
どうぞ、おかけになって」
机はない。丸椅子がいくつかと、小さなテーブルがあるだけだ。
「少しづつでもお続けになればよかったのに」
二人が落ち着くと、藤澤はまたその話に戻った。
「でも、ピアノの練習は毎日やらないとダメだって」
「それは、プロになる方はそうですわ。演奏家でなくとも、音楽の教師とか。でも、楽しみで弾くだけだったら、毎日である必要はないのよ」
「え、そうなんですか」
「そうよ。
ご存知? 今、社会人で、そうね、40 歳や 50 歳になって改めてピアノやバイオリンを習ったりしてる方、多いのよ」
「はぁ…」
「お仕事を持って家庭もある方が毎日練習、なんて無理でしょう? でも、人前で何曲か弾けるくらいにはなるのよ」
「そうですか。
もったいないことしたな」
サキは、社交辞令ではなく、本当にそう思っているようだった。
「でもね、それは学校の音楽教育が失敗してる、ってことだと私は思うの」
「失敗?」
「学校で、週に何時間か音楽の時間があるでしょう? そこでいきなり、音符の読み方がどうとか、ロマン派の歴史がどうとか、そんなことしたら、音楽を嫌いになれ、って言っているようなものだわ。そうは思いません?」
何の話だ? とサキは思ったが、黙っていた。
「それより、歌でも打楽器でもいいの。音楽をするのは楽しいってことを、まず知ってもらわないと。音楽教育にはそこが欠けているのよ。
だから、大人になってからピアノを始めようって方は決まって、『私にもできるでしょうか』って言うの。できないわけがないじゃありませんか。そういう苦手意識を植え付けてしまっているの、音楽の授業は」
わかった。彼女のツアーの目的の話だ。
「そればかりではないわ。今度は、その音楽の時間をもっと削ろうとしている。こんなことがあってたまるものですか。文部省の考えは完全に間違っているわ」
サキはその剣幕に飲まれた。あの、穏やかで幸福感に満ちた演奏をする藤澤さつきに、こんな激しい一面があるとは思わなかった。
「あなた、カラオケにはいらっしゃる?」
「え…いえ、最近は、あんまり」
「そうなのよね。最近、カラオケって下火なんですって。自分の声で歌う、っていう最も簡単な音楽の方法まで、捨てられようとしているの。これは、やっぱり、生活の中に音楽がないからなのよ。
『展覧会の絵』って曲はご存知よね」
頷くサキ。
「あの曲から、絵画に目覚めた方がいるわ。『くるみ割り人形』から工芸の世界に入った方も。オペラから入って、イタリア語、フランス語、ドイツ語をマスターして外交官をやっている人もいる。
進む道は音楽でなくてもいいの。でも、音楽は生活の中に、家具と同じレベルで存在しなければいけない。でも、それはもう、文部省が強制する学校教育には期待できないわ。
それで、財団を設立して、若い方にもっと音楽に触れてもらう機会を作ることにしたの。
そしたらびっくりしたわ」
藤澤は笑顔になった。
「みんな、同じこと考えてらしたのね。演奏家の方は、私もやりたい僕もやりたいっておっしゃるし、うちに来てください、いやこっちにもって、いつもスケジューリングが大変なのよ」
「あの、何か妨害があったりは」
「口ではね。
私、さっきの調子でお役人や教師の皆さんの悪口を言うから」
藤澤はいたずらっぽく笑った。わずかに、少女のような表情がのぞいた。
では、今回が初のケースになるかもしれない。しかも、妨害するかもしれないのは当の高校生。そうならないように、とサキは決心した。
「あら、ごめんなさいね。
私ばかりお話してしまって。
マネージャーの美木ももうすぐ来ますわ。そうしたら、段取りとかも詳しく決めていただいて」
「はい」
「でも、もう少し時間があるわね。彼女もちょっと忙しいから…。
そうだ、麻宮さん、OCTAVO を弾いてごらんになる?」
「え」
「これをご存知ってことは、なかなかお詳しいということよ。聞かせてくださいな」
「いや、ちょっと、それは。
いくらなんでも指が動かないし」
「大丈夫よ。別にレコーディングじゃないんですから。
ね、私もついてあげるわ」
サキはピアノの前に座らせられてしまった。京は黙っている。藤澤に、お嬢様っぽい、強引なところがあるのはもう知っていた。
鍵盤の蓋を開ける。フェルトのカバーを取ると、遠い記憶が蘇ってきた。
「何を聞かせていただけるのかしら」
サキは、鍵盤と藤澤の顔を交互に見た。恐る恐る、右手の中指を下ろしてみる。ポーン、と透き通ったミの音が響いた。
(弾けるかな)
いや、弾いてみたい、と思った。この音色で。
「久しぶりだからって緊張なさらないで。
力を抜いて」
(さ、力を抜いて)
遠い記憶。
サキは両手を鍵盤の上に置いた。まず右手から。
『エリーゼのために』
動く。指が動きを覚えていた。
初めて、先生以外の前で弾いた曲だった。そして、初めて誉められた曲だった。
(すごいじゃないの、祐美)
(祐美、上手ねぇ)
(お母さん)
曲はやがてテンポを落とし、リズムが乱れ、右手がもつれた。
(お母さん!)
「サキ」
京が慌ててやってきた。両肩を優しく掴む。何が起こったが見当がついたのだろう。
「麻宮さん」
サキは泣いていた。左手でまぶたをおさえている。藤澤は、何が起こったかわからずうろたえていた。
「ごめんなさい、私、無理なお願いをしてしまったのかしら」
「いえ、ご心配なく。
ちょっと、昔のことを思い出してしまったようです」
「ごめ…なさい」
スタッフにはボランティアの高校生が多かった。当然、演奏会そのものはプロのスタッフが準備に当たるが、ホールの入り口の整備や連絡係などをやっている。サキは、それと同じようにしてもぐりこんだのである。ただ、京の働きかけによって、サキだけは楽屋からステージの辺りに出入りし、藤澤のそばに張り付いていた。
その高校生たちのメンバー表は京の手元にもあり、機関はその全員について素性調査をしてある。西三も含め、特に問題のある者は見当たらなかった。そもそも、西三の生徒はできるだけ入れるな、と京が要請している。
サキは藤澤さつき周辺の雑用係だが、京は全体を見張っている。彼女が警備目的で来ていることはスタッフも承知していた。
「はい、OK.
予定通り、13:00 丁度開演で行きまーす」
スタッフの声が響いた。
楽屋。
藤澤はミネラル ウォーターを口に含んだ。目を閉じてゆっくりと飲み下す。
「いよいよですね」
そのコップを受け取ってサキが言った。
「あなたが緊張することはないのよ」
藤澤は、またいたずらっぽく笑った。
「麻宮さん、私、このツアーが終わったら、またウィーンだけど、春には帰ってくるわ。
遊びにいらっしゃいよね」
「はい。ありがとうございます」
「ピアノのレッスンして差し上げるわ。
あなたの脱力と打鍵、なかなか筋がいいと思うのよ」
「え?」
サキはポカンと口を開けた。
「40 歳まで待つことはないわ」
またいたずらっぽく笑う。
「なんでしたら、本当のピアニストもご紹介できるし。
そうだわ。上手くいったら、私の伴奏もしていただこうかしら」
「さつきさーん、お願いしまぁす」
スタッフが呼びに来た。藤澤は、ひきっつった顔のサキを残して部屋を出て行った。
「何言いだすんだよ、さつきさん…」
本番が近い、ということに気づいて慌てて追いかける。出た途端に、女とぶつかる。
「いてっ」
「あっ、ごめんなさい!」
女の爪がサキの左手をひっかいてしまった。だが、ちょっと血がにじむ程度だ。
「大丈夫です。すいません、急いでますんで」
サキは傷口をなめると、藤澤を追いかけた。
舞台は一幕で 1 時間半。
つまり、演奏会、というのは正しくない。芝居仕立てなのである。これは、少しでも楽しく、少しでも親しみを持ってもらおう、という藤澤のアイディアだった。
全体をピエロが引っ張る。分野はクラシックで、楽器はバイオリンが中心だが、こんなにバラエティに富んだものなのだ、ということを知ってもらうのが主眼なのだ。
導入部、ピエロが思い切り気取ってピアノを弾き始める。TV の CM や人気のテレビドラマで使われている曲で、それが実はクラシックの名曲なのだ、と紹介する。どこで演奏会をやっても、これは必ずウケた。
次は、オーバーオールを着たバイオリニストによる軽快な曲のメドレー。この部分は、会場によってジャズ バイオリニストやバイオリンをフィーチャーしたロックバンドの演奏になることもあった。実は世界的に有名な大道芸人が扮しているピエロの巧みな誘導によって手拍子が巻き起こる。演奏者も、この顔ぶれをこの料金で見ることは絶対に不可能、という一流どころが並ぶ。
一旦、照明が落ち、ステージの右端にコントラバスが並ぶ。それで最も低い音を弾いてみせる。これも、その迫力でどよめきが起こることが多かった。会場の設備が許せば、背後のスクリーンに投影しながら、実は怪獣の鳴き声にはコントラバスの音が使われている、などと紹介することもあった。
隣にスポットが当たると、そこには一回り小さなチェロがある。次がビオラ。
そして中を飛ばして左側に行くと、子供用のバイオリンが並ぶ。子供用のバイオリンは体や手の大きさにあわせて様々なサイズがあるが、ピエロがこれを順番に演奏していく。たまに、フライパンやスリッバも混じっていて会場の笑いを誘う。
こうしてひきつけておいて、中央に、藤澤さつきが登場する。文句なしに満場の拍手である。
照明が抑え気味になると、飴色の楽器群がコントラストを落とし、幽玄な風景を作り出す。
藤澤は、ゆっくりと、もの悲しげな旋律をかなで始めた。
「あれ…?」
「どっかで」
「なんだっけ」
「ノンノンじゃん!」
それは、よく聞くと、今年の夏に流行ったアイドル ポップスであった。長調の曲を短調にアレンジしてあり、あの軽快な曲がこんなに悲しげに聞こえるものか、と高校生たちは度肝を抜かれた。
それはやがて、展開部を経て、有名な――曲名は知らなくとも間違いなく聞いたことのある――バイオリン ソロに移っていく。咳をするものもない。どこかで携帯電話の呼び出し音が鳴ったが、周囲から無言の集中攻撃を受けていた。
(気持ちいいだろうな、これだけきれいな音が出せたら)
舞台の袖でサキはそれを見つめていた。すばらしい演奏について、ため息が出るような、と形容することがあるが、今のサキは、いやサキだけでなく、会場内の多くの高校生が、ため息もつけないでいた。全身が藤澤さつきに吸い込まれている、そんな感じだった。
(つ)
幕がサキの左手を撫でたらしい。さっき、爪で引っかかれた傷だった。
(ったく。
…?)
サキの体がこわばった。なんだ。何かが気になる。
一気に冷や汗が噴き出した。
(落ち着け。
もうステージは始まってるんだ。
落ち着け…)
何が引っかかっているんだ。本番間際に人がいたから? 違う。本番だからって全員がステージに集まる訳ではない。
見覚えのない女だから? いや、京はともかくサキは全員の顔を把握しているわけではない。知っているのは高校生のボランティアだけだった。
やっぱり、爪だ。爪…。
(!
あんなに長い爪の奴がいるわけがない!)
「お京さん!」
携帯電話に小声で叫ぶ。
《どうした》
サキが知らないのだから高校生ボランティアではない。事務所の人間には面通しをしてある。だとすれば、演奏者か舞台スタッフ。
だが、クラシックをやっているのなら、専門がなんであれピアノは基本、爪を伸ばしているはずはない。例外は、ギターなど、爪で弦を弾く楽器くらいだ。そして今日はそういう楽器はない。
舞台スタッフには力仕事がある。これも、長い爪であるはずがない。
京の返事より前、突然、ステージの照明が消えた。
つづいて、ステージから小さな悲鳴。そして金属音。
「さつきさん!」
走る。さつきはステージ上に倒れていた。
「さつきさん!」
今日はドレスではなく、普通のスーツだったのがまずかった。脛に赤い線が走っている。
「大丈夫よ、立てるわ」
まずステージの袖に運ぶ。スタッフが走ってきた。確かに、傷は皮膚だけだ。ナイフか何かがかすっただけらしい。
「手当てを」
サキはステージに戻った。ここから見える範囲にいるはずだ。照明は、ステージも客席も消えたままだが、動かない人影が上手 (かみて) にあった。動かないのではない。ステージに上ろうとしたのだが、サキを認めて反転しようとしているのだ。
鎖が風を切る。ヨーヨーはその陰の真中に吸い込まれていった。ドサ、と倒れる音。
(後は…)
見回す。灯りはほとんどない。見えるとしても辛うじてシルエットだ。自分も同じように見えているに違いない。サキは、自分が標的になっているかもしれない、ということに気づいた。だが、ここは動けない。
客席がざわめいた。
誰かが叫ぶ。
「後ろ!」
サキは振り向いた。背後にあるセットの上に人影。構えている。間に合わない。
だが、何かがその顔面に飛んだ。命中。崩れ落ちる人影。また、ドサ、という音。
「麻宮さん、下がって」
藤澤だった。
「さつきさん」
「襲ってきたのは二人だけだそうよ。お京さんが聞き出したって」
「でも」
「大丈夫」
毅然として、と言うべきか、頑として、と言うべきか。藤澤はサキの懸念を受け入れなかった。そして、いささか強い力でサキを押しのけた。
脇から、照明リカバるぞ、という声が聞こえた。うっすらと明るさが戻ってきた。上手で京がうなずく。サキはやむを得ず下手 (しもて) に戻った。
G 線のまろやかな音。藤澤は何事もなかったかのように演奏を再開した。
客席はまだざわめいていたが、不自然さを感じながらも、演出なのだろうか、ということで納得したらしかった。ステージはその後、滞りなく進行し、観客の高校生たちは改めてその音色に身を委ねた。
「お疲れ様でした」
二度のアンコール。スタッフの声が飛び交う中、藤澤さつきはステージを降りた。拍手はまだ鳴り止まない。
「お疲れ様でした、さつきさん」
「麻宮さん、ありがとう」
「ごめんなさい、あたしがもっと早く気づけば」
「いいのよ。ちょっと擦り傷ができただけだから」
「そうだ。ちゃんとした手当てしないと」
サキ達は藤澤を楽屋に連れて行こうとした。
「麻宮さん、あたしも中々のものでしょう」
「えぇ。すばらしい演奏でした」
「そうじゃなくて」
藤澤はじれったそうに身じろぎした。京が助け舟を出す。
「後ろにいたの、さつきさんがやっつけたんだよ」
「え?!」
藤澤は、事が片付いたらすぐに演奏を再開するつもりで舞台の袖にいた。いち早くその影に気づいた彼女は、手近のものを投げつけたのだった。それは。
「フライパン?!
ピエロの?」
「遅くなってごめんなさいね。これを投げるわけには行かなかったの」
藤澤は、本当にすまなそうにバイオリンを掲げて見せた。
「芸術家ってあんなもんなのかな」
後片付けが終わり、藤澤も家に送り届けた。藤澤は、お茶でも、引き止めたがこれは二人とも固辞した。今夜は、機関のエージェントがつく。
「『バイオリニストの腕力をなめちゃダメよ』って、んなこと言う?」
車の中で、サキはいくらかあきれていた。わがままと言うか浮世離れしていると言うか。フライパンを襲撃者に投げつけて命中させるとは。
「舞台度胸なのかなぁ」
京は笑った。
「ま、あの人も、それなりに修羅場、経験してるしな」
「修羅場?」
「クラシックの演奏者は、権力者が主催するコンサートに呼ばれることが多い。それが、独裁的な奴だったりすることもあるんだよ」
「なるほど。権力争いに巻き込まれることもあるんだ。
そう言えば、お京さん、なんか仲良かったよね、さつきさんと」
京は、サキをチラっと見たが、眉を一瞬、動かしただけで何も言わなかった。
「まぁ、さつきさん、ちょっと打ち解けやすいって感じあるけど。なれなれしいって言ったら怒られるかな」
「サキ」
「え」
「さつきさんだけじゃないってことには気づかなかったのか」
「ん…。
そういや、スタッフの人とも。顔見知り?」
「藤澤さつきは、スポンサーなんだよ、暗闇機関の」
声の出ないサキ。
「だから彼女の警護は優先事項だ。あたしも何度も担当してる。
お前、どうしてそういうとこ鈍いんだよ」
京はため息をついた。
「な、なんで!」
教えてくれないの、と言おうとしたサキだが、京は別に隠していない。スポンサーの話はともかく、多くの者と顔見知りだということに気づかない方が悪いような気がする。しかし。
サキは京よりも大きくため息をついた。
「なんなんだよ…あの人」
|