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ふ、と舞は息をついた。MTB を降りる。
日差しは厳しい。まだまだ気温は高いが季節は確実に秋に向かっている。
「早すぎたなぁ、いくらなんでも」
遠くで甲高い音が聞こえる。どこかの船だ。
舞はスタンドを立てて、手すりに寄りかかった。
フェリーがつくまでにはまだかなり時間がある。目を凝らしても見える筈がなかった。
「久しぶりだなぁ、おねぇちゃま。
ちょっと太ってたりして」
コロコロと丸くなった姉を想像して、一人で吹き出す。
いくら南国とはいえ、遊びに行っていたわけではない。警察署長として赴任したのだから、遊んでいる暇はなかった筈だ。正月にも帰ってこなかったし、これまでの一年半にもらったメールや絵葉書にもそう書いてあった。一度は本庁に復帰したパートナーの五代を呼び戻したのも忙しくなったからと聞いている。
「小笠原、かぁ」
フェリーで丸一日かかる。週末に往復できる距離ではなかった。かと言って、そこは観光地であり、夏や正月のような長期の休みには観光客がなだれ込み、チケットの確保が難しくなる。遊びに行けなかったのは、妹達の方も同じだった。
「おじいちゃまが悪いんだ」
そもそも、姉の神無島赴任を許可、発令したのは祖父だし、その影響力を駆使すれば、チケットの手配などもあっという間にできるだろうに、それをしてくれなかった。舞は今更のようにふくれっつらをした。
「警視総監の癖に。
飛行機だって飛ばせるでしょっ」
実は彼女達自身もそうしようと画策してみたことはあったのだが、いくら職階が高くともそれは無理だった。そういう人脈を持っていないし、ありもしないことで脅しをかけてゴリ押しするほど開き直ることもできなかった。
銭形 舞。16 歳。
警視総監の孫にして、警視。
かつて、「ケータイ刑事」を名乗り、IQ180 の頭脳を生かして数々の難事件を解決した。現在は、学業に専念しろ、ということで刑事の方は休業中である。
姉の愛は、舞よりも先に「ケータイ刑事」として活躍していたが、去年の春、小笠原諸島の神無島署に署長として赴任した。異動によってその任を解かれ、今日、妹達の元に帰ってくるのだ。
現在、「ケータイ刑事」として事件の捜査に当たっているのは、愛の妹、舞の姉にあたる泪だけである。
さらにその下の妹も含め、それぞれに用事があるから愛の出迎えは現地集合ということにしたのだが。
ケータイが鳴った。
「あ、おねえちゃま」
《舞、ごめん。
事件になっちゃった》
《警視庁から入電中…警視庁から入電中…警視庁から入電中…》
キッと音を立てて MTB を止める。泪は立ち入り禁止のロープをくぐった。
《新宿区**で転落事故発生。
被害者は小崎 大輔さん。自宅マンションの階段踊り場から転落した模様》
茶髪の男が無言で片手を上げた。足元に大きなシート。その下にあるのは被害者の死体。
「高村さん」
「自殺かなぁ。今、階段を詳しく調べてるんだけどね」
いい声だ。そして二枚目。振る舞いが一々ダンディ。
性格はともかく。
泪のパートナーにして、常にからかわれてオモチャも同然の刑事、高村 一平。
「他殺ってことはないんですか」
「体にもみあった形跡はない」
背後から声がした。鑑識の柴田 太郎だった。
「死体は真実を語る」
「じゃ、自殺」
「ただし」
柴田は泪に向かって人差し指を立てた。
「自殺でも、手すりなどを乗り越える時に、着ているものの表面にこすった後が残ることが多いが、それが見当たらない」
「他殺?
意識のないガイシャを誰かが投げ落としたとか」
「可能性としてはある。
でも、こすった後というのは、必ずできるというものでもない。自殺を固く決心しているのであれば、無理な乗り越え方をしない可能性もある」
「要するに、わからないってことですね」
「る、泪ちゃん…」
無邪気な言い方に柴田はたじろいだ。
「職業もわかっていないんだ。
仕事のトラブルで悩みを抱えていた、あるいは、誰かに恨まれていた。どっちにしろ、職業がわからないと、とっかかりがないんだよなぁ」
と、白い手袋を振る高村。
「あれ? 名前はわかったんですよね」
「胸ポケットに免許証」
ブツブツとつぶやいていた柴田は、すぐに立ち直ったのか、透明の袋に入ったパスケースを掲げた。一目で、高級品だということがわかる。
「お金持ち…」
「着ているものも高級品。
ボクでもこうはいかないね」
高村は小さく首を振った。泪は、高村はそれほど高給取りじゃない筈だけどなぁ、と思ったが黙っていた。
「ここは巨大な高級マンション。ガイシャがここの住人という可能性は高いね」
「見つかりました!」
若い警官が走ってきた。小崎 大輔の部屋が見つかったらしい。
管理人が鍵を開ける。泪たちもそれに続いて入った。
「確かに、お金持ちですねぇ」
広い。キッチン、リビング、奥にはベッドルーム、そして書斎。家具はすべて上品な飴色の木製。
「ガイシャはひょっとして法律家かな?」
棚に並んでいる本の背表紙を眺めた高村が言った。確かに、法律や行政に関する本ばかりが並んでいる。泪はそれを何枚かケータイのカメラに収めた。
「弁護士会に問い合わせてみるといいかもしれない。
あるいは、その関係の公務員か…」
大きな机の上のファイルに手を伸ばそうとする。
「触らないでいただけますか」
鋭い声に泪と高村が振り向く。
「君は?」
「先に伺ってよろしいでしょうか」
高村と泪がその言葉の意味を理解するのに一瞬の間があった。先に名乗れ、と言われているのだった。
さして背の高くないこの男、そして横に並ぶ女。高村はもちろん、前にパートナーだった五代よりも若い。泪はともかく、高村が見下ろす形になっているのだが、全く動じるところがなかった。高村は、大げさに肩をすくめると、身分証を開いて見せた。
「エステ サロンの会員証では身分証明にはなりませんが」
慌てて開き直す。
「警視庁 捜査一課の高村といいます。あなたは――」
「そちらのお嬢さんは?
学生証などはご容赦願います」
「…。
同じく、警視庁 捜査一課の銭形です」
男は、その写真と、高校生以外にはありえないブラウスにリボンという格好の泪とを見比べていた。
「で、そちらは」
高村は珍しく苛立っていた。
「失礼」
男は、いくらか慌てた様子を作りながら、同じく身分証をかざした。
「内閣機密調査室の郷といいます」
「内閣機密調査室?」
「リビングにお戻りいただけるでしょうか」
返事を待たずに二人はきびすを返した。泪と高村は、顔を見合わせたが、相手も同じ公僕である、しょうがないね、という顔でリビングに戻った。
「被害者は、小崎 大輔――」
「知ってます」
泪が郷の言葉をさえぎるように言った。
「内閣官房の職員です」
「内閣官房…?」
「はい。所属は生活安全対策室。
我々や、あなたがたと関係の深い部署ですね」
泪は、次の言葉を待って黙っていたが、高村はそれですべてを理解したようだった。
「我々の出番ではない、ということですか」
「え、どうして」
「小崎は、ここのところ、正体のはっきりしない者たちと接触していた形跡があります。そこから、何がしかの情報が漏れていた、あるいは、逆に小崎がなんらかの情報を入手していたのではないか、ということが疑われています」
「殺された、と?」
「その可能性は高いと考えられます。
勿論、機密漏洩を苦にしての自殺、ということもないではありませんが、いずれ、その点を早急にはっきりさせる必要があります」
「殺人事件の真相よりも、機密の方が重要だ、というわけですか」
高村はスラックスのポケットに手を突っ込み、顔をそむけた。
「なんでですか。
人が死んでるんですよ!」
泪が叫んだが、郷は譲らなかった。
「小崎は、公安と関係の深い生活安全対策室に所属していたんです。
漏れた情報によっては、もっと多くの人が死ぬ可能性があります」
「それは、そうかもしれないけど」
「まずは、しばらくのことだとお考えください。あなたがたを完全に排除するものではありません。
ご理解いただけますか」
「できない、と言うわけにはいかないんでしょう?」
下から覗き込む表情の高村。それは精一杯の抵抗だった。
「お願いします」
郷と女が頭を下げた。
「しょうがないね。帰ろうか」
泪はまだ納得していないようだった。だが、もっと多くの人が死ぬ、と言われては反抗もできない。高村の後について出ようとした。
「写真を抹消していただけますか」
郷が言う。
「え?」
事務的な口調が不快だった。
「携帯電話で撮影してらしたと思うのですが」
「別に変なものは撮ってません!」
「変かどうかは、調べないとわからないんです。特に、こういう事件の場合」
泪は、郷を激しく睨みつけた後、助けを求めるように高村を見たが、高村は諦めきったように頷いて見せた。
大げさにボタンを押して画像を消していく。何も残ってないことを示すために、ケータイを郷の前に突き出して見せた。
「これで満足ですか?!」
「ご協力、感謝します」
泪はケータイを乱暴にたたむと部屋を出て行った。
「こちらの調査が完了次第、皆さんにお任せすることになります。そのときはよろしくお願いします」
「ま、それは上の方が決めることでしょうね。我々のような下っ端ではなく。
失礼」
高村も郷に背を向けた。
郷――いや、零は肩をすくめた。京は、高校生の警視正というのが実在しているということに改めて驚いていた。
《乗り遅れた?!》
「うん…おじいちゃまに連絡があったって」
《何やってんのよ!》
舞は泪の勢いにたじろいだ。相当に機嫌が悪い。それはあたしだって、と思ったが黙る。
桟橋で、なつかしい姉の顔を探していた舞だが、愛は一向に姿を見せない。どうしたのだ、まさか中で眠り込んでるのではないだろうな、と思ったときに、祖父から電話があった。愛はフェリーに乗り遅れたのだという。フェリーの中で寝たのではなく、フェリーに乗る前に寝坊していたのだった。
ということは、この便に乗っているのではない、ということは昨日のうちにわかっていた筈である。なんでもっと早く連絡しないのだ、何時間も待ちぼうけだ、と警視総監たる祖父にあたりちらしたのだが、それがそのまま泪から帰ってきた。
「おねえちゃま、なにかあった?」
《別にっ》
「事件は?」
《…》
何かあったらしい。触れない方がいいかもしれない。
「とりあえず、帰るから」
《寄り道しないのよ》
「はーい」
普段はうるさいことを言わないが、それはこういうときに顔を出す。愚痴を聞いてやるのも妹の勤めだ、と舞は MTB を漕ぎ始めた。もう一人の妹は、愚痴に付き合う、というタイプではない。お互いのためにも、早く帰ってやるべきだ。
「あたしって、できた妹だなぁ」
警視庁の食堂。
どうも日本食は体に合わない、と言いつつ、高村はここで食事をすることが多い。今も、カツ丼を食べ終わったところである。味噌汁の椀を取り上げると、視線は自然にテレビの方に向いた。
(威勢のいい声が響いてると思ったら、国会か)
どこかの議員が何かをがなっている。
「もうちょっとスマートにできないものかねぇ」
不正の追求は、彼ら警官にとっても大事なことではあるが、そのやりかたはどうも彼のセンスとは相容れないもののようだった。
丼の乗ったトレイを厨房に返す。
それにしても、今日は観客が多い。食堂を出ると、今度は休憩室にあるテレビが目に入った。いつもは、疲れきった刑事がだらしなく座り込んでいたりするスペースだが、今日は黒山とまでは言わないものの、人だかりができている。
「おや、潤じゃないか」
五代 潤。前に 3 人のケータイ刑事と組んだことのある刑事。かつ、高村の甥にあたる。
「あ、一平さん」
「どうしたの、これ」
「証人喚問だって言うんですよ」
「誰を?」
「総監を」
「?」
理解できない。別の誰かが、参考人招致だよ、と言い直した。
「参考人、って。
警視総監を?」
《あなたがたはことの重要性を理解してらっしゃらない》
画面の中の議員が言った。
《内閣官房と言えば、文字通り内閣の中心。内閣府とともに首相を補佐するためのセクションです。
そのメンバーが死亡したが、まだそれが自殺なのか他殺なのかが判明していない。これを軽く考えていられる、ということが私には信じられません》
横にテロップが出た。無所属の、桜井 晋介という議員らしい。
《しかも、小崎氏は、生活安全対策室という、国民の安全に関わる部署に所属していた。
万々が一の可能性として、それが他殺であったとするなら、そこには国家の安全を脅かす事件の可能性を疑うべきです。それこそ、警察力を総動員してでも真相を突き止めなければなりません》
他殺、という言葉に、議員達も、こちら側の警官たちも反応した。軽々しく使っていい言葉じゃない、という野次が議場でも飛んだ。
《そうではなく、自殺だというのであれば、国民の生活の安定を預かる公僕が、自らの命を縮めざるを得なかったという悲劇をなくすため、やはりこれも、速やかな原因の究明が求められます。
捜査状況がどのようになっているものか、ぜひとも、警視総監の口から伺いたい。私が要求するのはその一点です》
高村は口元に手をやった。まさかあの事件が国会で取り上げられるとは思わなかった。
他殺か自殺かはともかく、転落の事件があったのは事実で、そのこと自体はすでに報道されてしまっていた。巨大なマンションであるだけに、事件が起こった瞬間はともかく、その後、パトカーなどが集まってきたことなどは多くの人が知っている。そして、高級マンションであるだけに、住人の中には何がしかの発言力を持っている者も少なくない。いくら内閣機密調査室とはいえ、それを握りつぶすことはできなかったのだろう。
それでも、あの後は秘密裏に調査しているだろうから、その後の経過が報道されず、あの議員の耳に入らないのも当然だ。
(公表もできないだろうけどね…)
あの小崎が本当に機密漏洩に絡んでいたとしたら、そう簡単に公にすることもできまい。それにしても。
「総監を参考人に」
「何、ねぼけてるんですかねぇ」
五代が言った。
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