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病室のドアが開いた。
「おはよう、零」
「おねえちゃま」
今日は土曜日。零は昨日、学校から病院に直行して、朝まで愛につきそっていた。舞と交代する時間だ。
「今度はあたしがいるから。零はうちに帰りなさい」
「あたしもいる」
舞は零の顔を覗き込んだ。
「目が真っ赤。寝てないんでしょ」
「でも」
「そんなお目々じゃ、おねえちゃまが起きた時に心配かけちゃうぞ」
零は眠ったままの愛を見た。機械が、愛が呼吸を維持していることを示している。
「うん…」
泪は日に何度か、彼女達の携帯電話に連絡をよこす。どこにいるかは口にしないが、無事ではあるようだ。彼女達は、誰に聞かれてもそのことを話したりはしなかった。ただ、無茶なことをしないでいてくれればいいが、と祈るだけだった。
舞は、あたしたち二人だけでも元気でいないと、と言おうとしたが、それが縁起でもない表現であることに気づいてやめた。
「さ。
ママに電話して迎えに来てもらう?」
「大丈夫。
あ、高村さん、呼んじゃおうかな」
笑う。
高村は、結果的に泪の脱走の引き金を引いてしまったことになる。ここのところ彼女達に遠慮しているのがわかる。
「いいかも。コキ使っちゃえ」
「電話してくる」
零が出て行くと、舞は持ってきた荷物を整理した。着替え、タオル…。
「ピンクのスウェットなんて、趣味じゃないんじゃないの?」
あの日、大学に行く途中で買ったスウェット スーツ。今は、証拠物件としてタオルなどと一緒に保管されている、血痕のついたスウェット。
いつもの愛の好みとは違う。慌てていたのに違いない。あの日は、大分早く家を出たはずだが、またどこかで寄り道でもしたのだろうか。
正直、色が何であれ、そのことが思い出されるので、スウェットやタオルは見たくないものだった。
「早く起きなさいよ、ねぼすけのおねえちゃま」
急に機械の様子が変わった。愛の呼吸が荒くなる。甲高い警告音が鳴った。
「おねえちゃま。
おねえちゃま?」
そばに寄る。口が動いている。何か言おうとしているように見える。
「おねえちゃま。
おねえちゃま、どうしたの。
おねえちゃま!」
「おかあ…さん…」
「え?」
看護師が飛び込んできた。計器の様子を見てナースコールを押す。医師の名を絶叫した。すぐに、その医師もやってくる。
高村に電話をかけて戻ってきた零はドアのところで立ちすくんでいた。
「おねえちゃま。
どうしたの、おねえちゃまに何があったの?」
舞は、何も答えられずに、同じように立ちつくした。
医師たちの顔も青くなり始めている。脈拍や血圧を読み上げる声が切迫していく。別の部屋から心臓マッサージの装置が運び込まれる。何が起ころうとしているか、舞にはわかった。
だが、頭のどこかが冷めている。何かが変だ。
「うずく、悪の予感…」
それが、口をついて出た。
医師が腕時計を見た。
11 時 35 分。
低い声で何かを言った。
零はベッドにすがった。父はその肩を抱き、母も零に続いた。皆、愛の名前を呼んでいた。
舞は壁によりかかかっていた。ベッドに近づくことが出来ない。顔を覆った白い布が目に入り、それを正視できずに目を背ける。そのまま病室の外に出た。
「おねえちゃまが…」
両親は間に合った。祖父はここに向かっているところらしいが、間に合わなかった。泪は今、どこにいるのだ。教えなければ。
舞は待合室に向かった。電話をかけられる場所を探す。だが、そうやって歩いている内に、頭の中の霧が晴れていった。ピースがはまっていく。
携帯を手にとる。泪の番号ではなかった。
「五代さん?
舞です」
電話の向こうが息を飲んだことがわかった。五代も知っている。
《お前、今、どこにいるんだ》
「警察病院です」
《どうした。何かあったのか》
愛の容態が急変したことは伝わっているはずだ。なのに「何かあったのか」。五代も動転している。もともと器用なタイプではないが。
「ちょっと調べて欲しいことがあるんですけど」
《…》
「五代さん?」
《言ってみろ》
「聖真学院大学の近くで、捜索願が出ていないかどうか」
《…。
ちょっと待て。車止めるから》
それには 10 秒ほどかかった。
《すまなかったな。
それはどういうことだ》
「おねえちゃまが着ていた、あのスウェット、おねえちゃまの趣味と違うんです」
《なに?
銭形、落ち着けよ。深呼吸しろ》
落ち着いている。むしろ自信がある。舞はそれを無視して続けた。
「おねえちゃまは、体育の授業で使うために、あのスウェットを新しく買ったんです。
買ったのは、学校に行く途中です」
《銭形…》
「だから、あたし達は、おねえちゃまがあのスウェットを着てるのを見たことがないんです。あの事件は最初の授業の後だったから、洗濯のために持って帰ってもいない。あれがおねえちゃまのスウェットだって断言できる人はうちにはいないんです」
五代は答えなかった。混乱していると思われているのか、それとも、舞の言ったことを理解したのか。
「さっき…あの…臨終の直前」
やっとのことでその言葉を押し出す。
「一言だけ、言葉が聞き取れました。
『おかあさん』って」
《…》
「あたし達、『おかあさん』じゃない。
あたし達は、『ママ』って呼んでるんです」
《あれは、お前達の姉さんじゃない、って言うんだな》
「はい」
《うちの人には話したか》
「まだ…」
《わかった。
捜索願は、近場の支店 (警察署のこと) に寄って調べてみる》
「五代さん…。
信じてくれるんですか」
《俺も前に同じような事件に関わったことがあるんだよ。
お前の姉さんと一緒にな》
「うん…」
《ご両親には、タイミングをみはからって話した方がいいな。お二人とも警察官だ。きちんと対処してくださるだろう》
「わかった…」
《じゃ、わかり次第、連絡をいれる。
待ってろよ》
「ありがとう、五代さん」
舞は駆け足で病室に戻った。事は重大だ。その、愛と間違われた人のためにも、早くしななければ。まごまごしていると、葬式の手はずなどという話になってしまう。
「あ、銭形さん」
白衣の青年が同じように駆け足でやってきた。
「はい」
「どちらにいらしてたんですか。
おうちの方が探してます」
「あ、すいません」
「急ぎましょう。
こちらが早道です」
病院というのは複雑な構造になっているものだ。
舞は、初めて通る廊下を走った。
「五代刑事、ファックスが届いてます」
「あ、ありがとう」
五代は、舞に言った通り、一番近い警察署に飛び込み、席を借りて、東京周辺の捜索願を調べた。詳細を、受理した警察署に問い合わせたところである。
「まじかよ…」
携帯を取り出す。舞は出なかった。病室に戻ったのか。相手を変える。
「あ、一平さん。
頼みがあるんです。銭形達のことで」
従兄であり、泪や零のパートナーであったこともある高村になにかを依頼すると、礼もそこそこにバタバタと飛び出し、車を警察病院に向けた。
走りたいのを堪えて愛の病室に急ぐ。
「失礼します」
内容が内容だけに、ものすごい勢いで扉を開ける所だった。だが、それが愛かどうかは別として、少なくとも、ここでは人が亡くなったばかりだ。一応、ジャンパーの襟と裾を直してから入る。
「五代さん」
最初に振り向いたのは父親だった。零と母親は、小さくなって椅子に座っている。誰も何も言わなかった。まだ話を聞いてないようだ。
「よろしいでしょうか。
お話したいことがあるのですが」
零が顔を上げた。母親はまだ動かない。
「重要なことです。みなさんに聞いていただきたいのです。
お願いします」
五代は深々と頭を下げた。
気は焦るが、母親と零の動きは鈍かった。やむをえないことではあるのだが。病室を出て、廊下の隅にあるベンチに誘導する。
「冷静に聞いていただくよう、お願いします。非常に複雑なことですので」
「なんでしょうか」
「さきほど、お嬢さん――舞さんから連絡をもらいました」
何と言うべきか考えていなかった。だが、ここは単刀直入に言うべきだ。
「あの女性は、愛さんではない可能性があります」
「五代さん」
反応は鈍かった。それはそうだろう。
「銭形」
五代は零に向き直った。
「あのスウェットを前に見たことはあるか」
「え?」
内容が届いていない。五代は繰り返した。
「あの、お前の姉さんが発見されていた時に着ていたスウェットを、前に見たことはあるか」
「ありま…せん」
「もう一つ。
お前たちは、お母さんのことを、何て呼んでる」
今度は、時間はかかったが繰り返す必要はなかった。
「…。
あの、『ママ』です」
五代は、頷くと、今度は父親に向き直った。
「舞さんは、あの女性が亡くなる直前に、『おかあさん』と言ったのを聞いたそうです」
「待ってください、五代さん」
母親はベンチに座り込んだ。父親が支える。ショックが続いたせいで、弱っているのかもしれない。
「これをご覧ください」
ファックスを差し出す五代。
「ほんの昨日です。
屋敷みずほさんという大学生の捜索願が出ています」
零がその紙を奪い取った。
「おねえちゃまに、そっくり」
よく見れば、髪のカールの具合は違う。だが、白黒のファックスのせいもあるにせよ、この写真だけを見て、いや愛ではない、と断言するのは難しいようだった。
「学年は一つ上だが、学校は一緒なんだ」
「でも、どうして、こんなことが。今まで――」
「詳しいことは確認させています。
間もなく、この捜索願を出したご両親もこちらにいらっしゃるはずですが、この屋敷さんは、長野の人で、今は東京で一人暮らしです。
大学生が学校をサボるのはよくあることで、数日であれば、友人達も気にはしないでしょう。まして、実家との連絡は月に数回、ということだと思います。彼女がいなくなったことに誰かが気づいて捜索願を出すまでには時間がかかります。
そして警察は今、例の件で大騒ぎになっていて、しかも愛さんは大事な関係者。そっくりな女性が襲われていて、授業が終わった後の足取りを誰も知らず、ロッカーから愛さんの学生証が出てくれば、簡単にそれを結び付けてしまいます。
おそらくそういうことでしょう」
零が顔を上げた。事態を把握したらしい。
「あ、高村さん」
高村は彼らに手を上げ、銭形夫妻に小さく一礼すると、見たことのない男女を連れて、もう一人の刑事と共に病室に入っていった。それが屋敷みずほの両親だろう。
間もなく、零たちの時よりも大きな泣き声が響いてきた。夫妻は、病室のドアと五代の顔とを何度も見比べた。
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