新作映画・そして僕自身のためのノート


2006年5月、僕は、17年前に日本を飛び出し、最初に訪れたフィリピン、マニラ首都圏のスモーキーマウンテン跡地にたたずみ、今までの自分自身が経験した数々のこの地での出来事を振り返っていた。そして、その記憶の多くは決して死ぬまで僕の脳裏から消えることがないと断言できるほど強烈な体験の数々だった。僕はこの地で、日本では想像できないほど、「多くの子どもたちの死」に立ち会った。
そして、この地で撮影した映画「忘れられた子供たち スカベンジャー」の主人公エモン(当時13歳)が自殺して死んだという噂を聞いた。彼がいくら貧しくとも、自殺するなんて有り得ない事だった。僕は彼の自殺の真相を確かめようと思った。

タイトル「(仮題)天国の子どもたちー世界中の貧困と飢餓と戦争をなくすためにー」


以前はゴミ捨て場の街だったこの地は、今は跡形もなくただの広い丘になり、あたり一面は草で覆われていた。この丘の向こうにはこの地に暮らしていた住民のための10棟ほどの中層住宅が立ち並んでいた。朝8時、その場所からゴミ拾いの格好をした多くの人々が近くにできた別のゴミ捨て場に通い、17年前と同じように、毎日、再生可能なゴミを拾い、それをその日のうちに売ってお金を稼ぎ、生活していた。そこには多くの子どもたちがゴミ拾いをして働いていた。また、ゴミ捨て場の裏手には以前のスモーキーの街かと錯覚してしまうほどの広大な掘っ立て小屋のスラム街が拡がっていた。

どうやら僕は、長い間、「どうしたら世界中の貧困と飢餓と戦争がなくなるのか」この答えを探しに、いつもどこかを「放浪」していた気がする。最初はフィリピン、インド、タイなどのアジアで、2001年の911ニューヨーク同時多発テロ事件以降は、アメリカ、パキスタン、アフガニスタン、そしてイラク、ヨルダン、イスラエルなどの中東だった。

30歳までの僕はというと、東京で親に大学まで行かせてもらい、自分の将来の夢は大金を稼ぎいい生活をすることなどと思っていた。僕は、たまたま持ち前の要領のよさから、20代前半に寺山修司の劇団天井桟敷の演劇世界を垣間見、彼の死後は映画の世界に入ることになり、監督をさせてもらいながら、一般映画の題材を探していたが、命をかけてまで撮るものが何も見つからず、金のためにいやな仕事をしながらも、かといって自分のやりたい仕事も見つけられず、出会う人々に迷惑を撒き散らしながら、ただ悶々と時間だけが過ぎていた気がする。

1988年9月頃、友人の誘いもあり、僕は初めてフィリピンに渡り、「世界の貧しさ」という現実にぶつかった。僕はその時、僕の財布からお金をせびりに押し寄せてくる貧しい人々の大群にうろたえた。その時の僕は、初めて泊まったホテルからさえ一歩も出られなくなるぐらいの身の危険を感じ、体は小刻みに震えていた。

ようやく数日後、すこしはその状況にも慣れ、街を恐る恐る散歩していると、日本では想像などしなかった「働く子どもたち」と出会うことになった。気を落ち着けてみると、マニラ市街地では物乞いや観光客目当ての花売りなどをしながらも、家族と路上生活しているストリートチルドレンと呼ばれる子どもたちが数えきれない程たくさんいた。彼や彼女らは、学校にも通わず、5,6歳ぐらいから仕事をはじめ、しばらく観察していると、必ず当たり前のように、満面の笑みで、母親に稼ぎの大半を渡していた。

「なぜ、この国ではこんな子どもたちまでが働いて一家の稼ぎ手になっているのか・・・」この光景は確実に僕の頭の中にある日本での常識を吹き飛ばしていた。

その後、僕は、「もう二度とこの地には来ない」と心に決め帰国の途についたつもりだが、なぜか飛行機が成田空港に着いた瞬間、またすぐフィリピンに引き返したくなっていた自分がいた。たぶん、僕の心の中は、何をしてでも食べていけた日本での暮らしに魅力を失い、心躍る何かに飢えていたのだと思う。たった1週間のフィリピン滞在だったが、僕の心のどこかの震えはまだ収まることなく、体の中の血はまだ沸き立って動き回っているかのような感覚だった。

初めて訪れた国、フィリピンで初めて命の危険を感じ、自分以外はだれも信じられない状況に追い込まれ、マニラの働らくストリートチルドレンたちとも出会い、子どもたちの屈託のない笑顔に魅了された僕は、ついに1989年1月、運よく映画製作資金の一部の都合もつき、なかば日本を捨てる覚悟(日本から捨てられる覚悟でもある)でまた貧しき国へと旅立った。


そして、撮影を目的に、ストリートチルドレンと付き合いながらも、嘘をつかれお金をせびられ続け(親を捨てたり、親から捨てられた少年少女たちは、生活のために手段を選べないので、気持ちはすっかりすさんでいた)僕は辟易とした気持ちになり、なかば投げやりにもなり、日本への帰国も脳裏によぎり始めたまさにその時、僕は、マニラの北のマニラ湾沿いに位置する40年以上続いていた地図にも載っていない「スモーキーマウンテン」と呼ばれていたゴミ捨て場の街に出くわした。

僕は、その日のことを、昨日の出来事のように鮮明に何もかも覚えている。その記憶は絶対に一生忘れることのない強烈な体験だった。そのゴミ捨て場は、マニラ中の家庭や工場からの産業廃棄物も一部含んだゴミが捨てられ続けた、広さ21ha高さ40mの巨大なゴミ山だった。 驚くことに、ゴミ山の斜面には、3000世帯2万1千人の暮らす掘っ立て小屋が所狭しと並んでいた。この場所は、政府のゴミ捨て場なので、当然、勝手に住み着いた住民のための水道や電気なども通っておらず、フィリピン人からも国の恥部だ、臭いやつらだと陰口をたたかれた差別された街だった。 このゴミ捨て場の周りはすべて強烈過ぎるすえた生ゴミの悪臭とハエの大群で覆われ、口を閉じていないとハエが口の中に飛び込んでくる様である。

僕は、遠巻きから、ゴミ捨て場の頂上を見ると、ゴミ収集車から捨てられたゴミに向かって懸命に走って群がり、そのゴミを拾っている豆粒大の老若男女の数百数千人の人間らしき姿がみえた。僕は、その時「自分の想像している地獄とはここの事だったのか」と正直、思ってしまった。


そのあと、僕は一緒にいったスタッフ達とこのゴミ捨て場の街を見て回ることにし、ゴミ捨て場の頂上を目指し歩き始めた。僕はかなり動揺していたが、誰にもそのことを悟られるのがいやで一番後ろを歩くことにした。道はかなりぬかるみ、靴が重くなっていくのがわかる。ちょうど、山の中腹に差し掛かったぐらいで、向こうの路地から、今ゴミ拾いを終えたばかりだと思われる強烈なにおいの4、5人の女の子たちが僕たちをめがけやってきた。僕はとっさにポケットに手を突っ込み小銭をさがし、その子たちから言われたら渡そうと準備した。ところがその子たちは、僕たちとすれ違いざまに澄んだ瞳で微笑を浮かべ「カムスタカナ」(日本語でこんにちはという意味)と挨拶の言葉をいい、ただ僕たちの前を通り過ぎていった。

僕は、この日、この地獄だと思ったゴミ捨て場で偶然出会った子どもたちに惹かれた。ここに住む少年少女たちは、このゴミ捨て場で生まれ、育ち、多くは途中で死んでいく運命と聞いたが、僕はどうしても、この子どもたちの澄んだ瞳のわけを知りたくて撮影を始めた。

僕たちは毎日、マニラの安宿からこの地に通い、ゴミ捨て場で働く子どもたちを撮影することにした。また、夜になると、この地から街にゴミを探しにいく13歳のエモン君一家に出会うことになった。彼は学校もやめ、母、弟、妹と一緒に毎日カリトンという荷車を押して市場などにいきゴミを拾っていた。彼は父の死んだあと、一家を支えていた。彼と話すと、彼はゴミ捨て場以外の生活は何も知らず、車にさえ乗った経験がなかった。

数週間後、僕たちは、この街の住民会議に呼び出され、住民代表から「私たちは見世物ではないのですべての撮影を拒否します」と宣告され、途方にくれた。

僕たちスタッフは安宿に帰り、今後の対応を考えた。すると、撮影助手から僕はこんな言葉を投げつけられた。「監督は住まなくちゃだめなんだよ」 僕はひとりになり考えた。「今まで生きてきて、自分の限界を感じたことがなかったが、今回初めて挑戦してみるか・・」


次の日から僕は、ゴミ捨て場の麓の知り合いになった人の家のひと部屋を借り、住みついた。 1日目 ゴミ捨て場から強烈な悪臭がした。ゴミ捨て場で捨てられた死体をみて驚いた。 2日目 ゴミ捨て場の斜面の家々を歩き回ってもあまり臭わなかった。ゴミ捨て場に行く途中の家の前で病気で急死した棺おけに入った5、6歳の子どもの死体をみた。 3日目 どこを歩いてもゴミの臭いが感じられなくなった。この街を流れる川にどこかで殺された死体が浮いているのを見ている僕がいた。

僕はこのように毎日毎日、この街を用もないのにただうろついた。そしてゴミの悪臭と死体にも慣れてしまい、何も驚かなくなった僕がいた。そして、友達を作る目的で、住民たちに、この地では珍しかった写真を撮ってタダで上げたり、原価で分けてあげたりした。しかし、住み始めて2週間も過ぎた頃、僕は急に倒れ、意識もうろうとし、3日間寝込んだ。僕はうまれて初めて自分の限界を超える体験をした。

もう僕は一刻も早くこの国を離れたかった。そして、しばらく安宿で休養することにした。そして僕はある日、街の安酒場でウエイトレスのバイトをしていた現在の妻である女性と出会った。彼女の家庭も裕福ではなかったので彼女は働かざるをえなかった。その日から僕たちは毎日会い、いろいろなことを話し合った。フィリピンの貧しさの事、日本の豊かさの事、理想の生き方とは。僕はいつしか彼女の実家にまで行き、彼女の家族とも仲良くなっていた。彼女の母は、家の土地に入った泥棒に銃殺されていた。 僕たちは二人で孤島まで出かけたこともあった。そして彼女に言われた。 「あきらめないでフィリピンの貧しい子どもたちのためになる映画を撮って・・・」 僕は彼女に元気をもらい、初めてこの国が好きになりかけていた。


それから僕は、無理にスモーキーマウンテンに住むことはやめ、食事と水は外で取ることに決めたが、部屋は借りっぱなしにし、以前どおり、この街を訳もなくカメラ片手にただうろついた。街のあちこちでは僕への挨拶が聞こえてくるようになった。 いつしか僕は、このゴミ捨て場の住民として認められ、名前も「ヒロ」と覚えてもらい、この街のどこにいっても友達や知り合いがいるようになった。 僕はもう、この地で何をやっても許されるようになっていた。

やがて僕は、ゴミ捨て場でJR18歳、クリスティーナ16歳、マリルー13歳などいつも一緒にゴミ拾いしていた仲良し7人組と出会った。彼女たちは月曜から土曜日までは朝8時から夕方までゴミ捨て場で仕事をし、母に稼ぎの大半を渡していた。

ある日曜日、僕は彼女たちから遊びに誘われ一緒に行くことにした。この日、みんなは午前中で仕事を終え、家に帰りおしゃれをして、ジプニ―と呼ばれる乗り合いバスに乗り込んだ。日曜日だけは、彼女たちが、稼ぎを母に渡さずに自分たちで使う日だった。

彼女たちが最初に向かった先は教会だった。僕は、30分ほどミサに参加して戻ってきた彼女たちにとっさにある質問をしていた。
「神様に何を祈っていたの?」
マリルーは「私はずっとゴミ捨て場で働いていいから、せめて妹と弟を学校に行かせてくださいと神様に祈っていました」といった。
ネリア14歳は「今お父さんが病気なので、私の命が少し短くなってもいいから治して下さい。そうしないと私の家族全員が生きていけなくなりますからと祈っていました」と答えてくれた。 僕は、「自分たちの事よりも大事にしている家族がいる」この子たちが、とてもいとおしく感じられた。そして、自分自身がこれから何を大切にして生きていくのかを真剣に考え始めていた。


7月、僕はゴミ捨て場の子どもたちの生活をようやく撮り終え、一時、東京に戻り映画の編集をしようとしたが、どうしても自分の彼女のことが気にかかり悶々としていた。すると、フィリピンに残っていたスタッフの1人から国際電話が入った。7人組のJRとクリスティーナがどうやら結婚する予定だという。僕は撮影を口実に、喜び勇んでフィリピンに戻り、彼女と家を借り、同居することにした。

12月スモーキー教会で自分の想像を超えていた「JRとクリスティーナの結婚式」が行われた。僕は、撮影拒否にあった神父と問題が発生するのがいやで撮影に立ち会わないことにした。

またこの頃、アキノ大統領退陣を求め、首都マニラで大規模なクーデター騒動があった。僕は偶然、反乱軍と政府軍の境界地域に迷い込み、一機の戦闘機が僕をめがけ低空飛行してきた。僕は全速力で走り、はじめて「死」を覚悟した。機関銃の玉が僕の背中を掠めたのがわかった。僕のすぐ前を走っていたフィリピン人ジャーナリストの手が撃ち抜かれ、血だらけになっていた。

1990年5月、家族思いのエモンが家出したが、家出先で彼は母に渡すお金を貯金箱に貯めていた。エモンに聞くと、彼は家出をして3日間何も食えない経験をして、意識が朦朧となり、知らずに他人の家から泥棒していたことを話してくれた。そして、弟ミンショが行方不明になり母が懸命に探してみつけた。また、JRとクリスの子どもが生まれるが、ゴミがほとんど来ず、子どもの黄疸の薬代のためにJRは売血しに行くが体重が減っていたため売れなかった。3ヵ月後、二人は別居した。このように貧困とはだんだん人間を人間でなくしていく。 僕はこの悲劇で映画を終わらせたくなかった。だから僕は待った。エモンが家に戻り、JRとクリスが仲直りする日まで。

1991年5月、エモンが家族の近くに戻り家族の世話をしていた。クリスもJRの家に戻って親子3人暮らしていた。クリスが話してくれた。「私たちにとっていい生活は必要ありません。子どものミルク代と1日3回食べれればいいです。私たちは今家族が一緒なので幸せです」僕の妻となった彼女は妊娠5ヶ月目に入っていた。

10月5日、マニラの小さな診療所で自分の子どもの生まれる瞬間に立ち会った。僕は「この世で自分よりも大切な存在ができ、僕は2番目になった」と感じた。

1992年7月22日、 日本語で「こんにちは」も言えない妻と赤ん坊たちで日本の生活を始めることにした。

1993年秋、一家で800円しかなくなり、初めて貧困の現実を体験した。僕は妻から言われた。「今のヒロがいい。フィリピンにいる時、あなたはいつもお金があり、いつもどこかにいっていたので、私は今のほうがずっと幸せよ」と微笑んでくれた。僕は映画の内容を、「かわいそうなゴミ捨て場の子どもたち」から「家族の絆を大切さにするゴミ捨て場の子どもたち」を中心とした話に変えた。

そして、ついに僕は、強烈な悪臭と不衛生な環境にさらされ、金銭的な苦労をしながらも、スモーキーマウンテンと呼ばれたゴミ捨て場に生きる子どもたちの生活記録映画「忘れられた子供たち スカベンジャー」を完成させた。そして、1995年5月に東京の若者の街、渋谷で公開させ、日本各地やアメリカを除く世界各国でも上映されるようになった。

しかし、その後、スモーキーマウンテンでは住民の強制立ち退き話が持ち上がり、街は賛成派と反対派に分かれていた。時のラモス大統領は、「フィリピンはゴミ捨て場の貧しい国」というイメージを嫌い、11月にゴミ捨て場を閉鎖、すべての住民の強制退去が行われた。すべての住民は近くの仮設住宅に移転させられたが、住民の生活手段はごみを拾って生きる以外の方法が何もなかった。


1998年ごろ、僕と妻とクリスは長年の念願だったスモーキー跡地近くのトンド地区にNGO「忘れられた子どもたちの家基金」事務所を作り、ゴミ捨て場の子どもたちの教育援助などをはじめた。しかし、僕と妻のどちらかが日本でどちらかがフィリピンという生活を余儀なくされ、だんだん夫婦仲が悪くなり、閉鎖せざるをえなかった。この頃、初めて僕は命を狙われ、人を本気で殺そうとも思ったが、やめた。
僕の心のどこかで「今、人を殺して、次に生まれ変わるとしたら、ひどい境遇に生まれるぞ」と別な僕がささやいた。

その頃、僕はあるカメラマンにゴミ捨て場の子どもたちを撮影したいと言われ、ケソン市パヤタスゴミ捨場を案内することにして、驚いた。その地では50mに1人の割合で障害を持った子どもたちが生まれていた。水頭症、小児麻痺、ダウン症、脳性まひなどの子どもたちだった。その日、僕は初めて子どもに触れない経験をした。生後数週間のその赤ん坊はまるで映画のETに出てくる子と一緒の外見だった。しかし、その子の母親も4、5歳の姉もその子を抱きあげ、頬摺りをし、その子を愛していた。僕は自分の差別した気持ちを恥じた。
数ヵ月後、また訪れてみるとその子は神の子となっていた。

だから僕はその地で障害を持って生まれた子どもたちの映画を創ろうと決めた。ある日、街をうろついていると、1人の母親が僕のそばに駆け寄ってきた。「赤ちゃんが吐いて下痢なので病院に連れて行って」僕はすぐその家に向かうと、元気そうな赤ん坊が寝ていたように見えた。僕はすこし安心し、タクシーの拾えるところまでその親と赤ん坊を連れて行かせた。次の日、一晩中、病院をたらいまわしにされ死んだ赤ん坊の遺体と対面した。日本人の僕が病院まで連れて行き病院で「お金の面倒を見ます」といえばその子の命は助かったはずだ。
僕は自分の判断ミスから、1人の赤ちゃんの命を救えず、悔やんだ。

2000年7月、撮影開始後1週間で、予想しなかったゴミ捨て場の崩落事故がおき、1000名の住民が生き埋めになった。僕たちは毎日毎日、死臭漂う中で、ゴミの来なくなった、生活手段を失った住民の生活を撮り続け、2001年5月に映画「神の子たち」を完成させ、公開の準備に入った。


そして、2001年の9,11のニューヨークでの同時多発テロ事件のあと、アフガニスタンでの報復攻撃へと続き、僕の頭の思考停止状態は6ヶ月続いたが、 2002年3月末に映画上映ついでに「グランドゼロ」を訪れ、「世界が平和になるために僕たちはなにをしなければならないのか」との思いが急に湧き、「今の世界の中心はアメリカであり、アメリカ政府が世界を変えようとしなければ何も変わらない」事に気づき、僕の映画をアメリカ人に見てもらうための活動もしたが、アメリカのメディアは他の国の貧困問題などに思いを寄せることはしなかった。(唯一ニューヨークタイムスが映画のレビューを記事にして載せてくれた)

いつの頃からか、僕の心の中は、「世界の貧困はぜったいに変わらない」と諦めかけるようになり、時たまテレビから流れる「アフリカで起きた戦争や内戦などによる飢餓の子どもたち」などのニュース番組を見てさえ、自分の心からその映像を追い出してしまっていた。

それから、世界は、アメリカは、世界中のメディアは、2003年3月20日のイラク戦争から今まで世界の貧困問題にはほとんど目もくれずに、置き去りにされ続けてきた。

僕の興味も「かわらない世界の貧困問題」から「自分で体験したことのない戦争とは何なのか」に移り、僕は、イラク戦争前にイラク入りしたが、ほとんど撮影させてもらえず、恐怖も手伝って、戦争前にイラクから逃げ帰ったことを今でも後悔している。そして、4月5月6月と戦後のイラクに入るが、その後、人には言えない家庭の問題が起きたため帰国、現在に至るまで「戦争という状況」があまりわからない。

イラクでアメリカ軍として派兵されたフィリピン人兵士などから、顔を隠し、声を変えての衝撃的なイラク戦争の実態が語られる。(この戦争がいかに不正義によりしかけられていたか、いかに多くのイラクの罪もない住民や子どもたちをも殺す命令が出されていたかなどが具体的に語られる。また、この戦争にはイスラエルの情報機関なども関与した可能性や、今でも戦争をわざと終わらせないような命令が出ているのではないかといった疑問の声やその他の衝撃的内容が語られる)

また、日本では、ほとんど誰も知らない911事件後のアメリカ市民の実態(イラク戦争でのアメリカ兵の死体はテレビに流れないことやアメリカの若者は麻薬づけも多く、街にはホームレスが溢れていることなど)も語られた。

2004年秋、家族の問題もかたづき、僕は、どうしても戦争を体験するために、危険になったイラク入りをしようと思ったが、日本人青年香田君がイラクで武装勢力に捕まった。僕は彼のイラク入りを止めなかったことを今でも悔やんでいる。彼は僕と同じように危険を冒しても「戦争という状況」を体験し、自分の生きる道を決めたかったと思う。 僕は彼の葬儀に参列し彼の両親に詫びた。

僕はその後、戦時下のイラク入りの機会がなくなり、膨大な本を読みふけることになった。 また、911ボーイングを捜せというDVDにもめぐり合う。そこには、911事件の政府発表とは違う事実が検証されていた。また、田中宇(さかい)さんという国際政治ジャーナリストのHPには今まで知らなかった「イラク戦争の真実」やだれが世界を動かしているかなどの記述などがあり驚く。世界では日本も含め、さまざまな情報操作が行われていた事実が僕の頭を駆け巡った。

2005年9月、世界中の貧困問題を何とかしようというホワイトバンド運動に出会い、僕は諦めていたフィリピンの貧困にもう一度向き合うことになる。世界中で、3秒にひとり、子どもたちが貧しさのために食べ物がなく、水も汚いといった理由で死んでいる現実にただ驚いた。1日に換算すると世界中で2万5千人の子どもたちが貧しさのために死んでいるこの世界とは一体なんなのか。僕は怒りがこみ上げた。

僕はようやくこの数年でいろいろなことがわかってきたように思う。世界各国が国益で政策を行っていく現実において、世界の中心だったアメリカ政府が問題にしなければ、利益をまるで生み出さないアフリカの飢餓やアジアの貧困問題などはどうでもいいことなのである。また「世界は、イラク戦争阻止の世界中の反戦1000万人の行動や声でも変わらなかった」ことを思えば、アメリカ政府は石油や軍需産業の国益などでイラク戦争に突入したのかともかんぐりたくなってきた。

日本政府だって実はアメリカ政府の言いなりで、アメリカ国債を毎年20兆円買わされたり、沖縄基地のグアム移転予算7000億円をだすことさえも、日本国民は知らず知らずのうちに納得していることになってしまっている。僕は次第に、世界は、石油、穀物、金、ダイヤモンド、金融、原子力、マスコミを支配した人々により動かされているのではないかと考えるようになっていった。

2006年4月、現在のフィリピンは、次はイラン戦争かとの懸念からか石油高の影響をもろに受け、毎週毎週物価が上がっていた。このままいけば間違いなく物価が日本並みになるだろう。街ではホールドアップが横行し、MONEYを稼ぐために人々はたとえ嘘を言っても、泥棒しても、人を殺しても生き延びることに必死になっている様である。たぶんこの国はもうすぐ飢餓のために人々、特に子どもたちから死んでいく予感がする。この国の薬は高くて買えないし、まるで、サバイバルゲームをしているみたいに子どもたちが死んでいく予感がする。誰が石油や薬の値段を決めているというのか。

「いったい世界はどんな構造になっていて、誰が世界の政策を決定するというのだろうか」


僕はフィリピンで「忘れられた子供たち」「神の子たち」の主人公の現在の状況を調べることにした。 そして、映画の登場人物の中だけでも、死んだり、殺されたり、レイプされたり、行方不明の子どもたちが半分ぐらいはいるのである。「忘れられた子供たち」のエモンは死に、母と妹は田舎のミンダナオ島に戻っていた。僕たちスタッフはエモンの死の真相を調べるうちに、また衝撃的な事実をつかむ。JRはゴミ拾い、クリスは4人の子どもがいて、小さなお店を市場で開いていた。 「神の子たち」主人公ノーラは夫に殺され、子どもは行方不明。ニーニャは妹が病気で死に、今は学校に通いながらゴミ拾いしていた。水頭症のアレックスは撮影スタッフにより援助を受けとても元気だった。

日本人の高校生や大学生がゴミ捨て場を訪問しに来ていた。そして、日本人アーテストもこの見捨てられた地にやってきてくれた。このように実際に現地に来て友達を作っていく日本人が多くなることを僕は願うばかりである。彼らから次々に感想が語られる。

僕はアロヨ大統領にこの映画のご協力を願いにいった。「この映画を一緒に作り、世界中の人々にも見てもらい、多くの人々にフィリピンを訪問してもらいましょう」

僕たちのフィリピン人スタッフは、名刺大の緊急電話番号を書いた紙を貧しい地域に配り始めた。そこには「子どもの命が危険でしたらボランテイアが駆けつけますのですぐ電話ください」と書いてあった。僕たちは逐一その子どもたちの姿を撮影して、この映画で見せることにした。

僕は中国や韓国、インド、ロシアなどの外国人が来るフィリピンの場末の安酒場で酔いながら神に誓う。「もう世界はアメリカに頼ったって何もしてくれない。だから僕は、このフィリピンの貧しさだけは絶対になくす。僕の力をすべてこの地に捧げ、一人でも多くの子どもたちの命を救いますのでどうか見守ってください」僕は、酔いながら、また神に誓う。「自分の愛する家族を大事にすることと、この映画を早く完成させ、この映画を見た人たちが、世界中の死んでいく子どもたちを少なくするために働いてもらうのでご協力お願いします」と。

僕が心の底から笑い、そして泣ける唯一の場所、それはフィリピンと呼ばれる国である。

この地は7000余りの島々からなり、年中常夏なので裸だって生きていけるし、土地が豊富にあるし、なによりも人間が魅力的で、素直で嘘は言わず、約束は守り、他人を家族と同様に思って助けてくれる。僕のフィリピンとの付き合いもすでに17年。あっという間の出来事のような気がする。 生と死の渦巻く国フィリピンは、僕を確実に人間として成長させてくれた。

僕はこれからこの国と日本人が積極的に関わってお互いのためになる方法を本気で考える。 まず始めにこの地に「日本人のための何でも相談室」の事務所を開こう。

生きる希望をなくした人にはこの地に来ることを進め友達を紹介してあげよう。 結婚相手を探している人には心優しい相手を紹介してあげよう。 海外で農業をしながら暮らす経験をしたい人には格安の農地を探してあげよう。 ボランティアをしたい人には事務所の仕事を手伝って、貧しさのために死んでいく子どもたちの命を助けてもらおう。


タイトルバックに
2006年のマニラ、夕陽や街の映像にかぶり
「フィリピン首都マニラでは、今でも青年男女の失業率が50%を越え、スクワッターと呼ばれる他人の土地に住む人々が30%もいる。この街角のいたる所では子どもたちが物貰いをし、住民の多くが生きていくことに必死な形相は17年前と変わらない」

2006年のマニラの普通のスラムに住むある家庭の映像にかぶり 「今現在も、たとえ仕事があったって大人1日の最低賃金は日本円で600円ばかりで、月給15,000円という金額では、一家7人で1日3回、ご飯と小魚のおかずを食べて終わりといった感覚で、肉も牛乳も果物も石鹸も服も靴も何もかもすべてまともに買えず、誰もが真面目に働くのがバカバカしくなる。だから、ここでは、汚職、袖の下、泥棒、スリ、売春、売血、薬物中毒、アル中、臓器売買、殺人などは当たり前におこり、警察官さえ信用できないすべてがお金で方がつく社会になっている」

学校に登校する子どもたちにかぶり
「子どもが毎日学校に行ける家庭はいいほうで、日本と違い、小学校でも、交通費や弁当代などの他、たまにレポート代として先生にお金を持っていく必要があり、その日、家に現金のない子どもは学校に行きたくとも行けない。その他に、教科書、ノート、制服、かばんなどの費用も当然かかるし、飯を食えなかった翌日には、学校とか勉強とかもうどうでもよくなるのが人間である。この血縁第一主義の貧しき国では、いくら成績優秀者でも仕事は得られず、貧しき家の多くの子どもたちは、物心つく12,3歳頃までに学校をやめてしまう。だから、貧しき国の親は『子どもがただ生き続けていることが幸せ』と感じ、貧しき国の子どもは『学校にいき勉強できることが夢』だったりする」

ストリートチルドレンの映像にかぶり
「財政破綻した国の政策は、貧しき子どもたちを助ける意識はあっても、社会全体は何もかもお金がかかる仕組みになっている。当然、日本の生活保護などの制度もなく、多くの優秀な国民が給料のいい外国に出稼ぎに行って家族と離れ離れに暮らし、多くの家庭崩壊を招いている」

病院の映像にかぶり
「病院の診察料はただでも、薬は日本と同価格でしか買えず、弱者である子どもたちの死が目につく。この貧しき社会においては、たとえうそを言っても、お金を得たものだけが生き残っていける弱肉強食の世界になっている」

新しいゴミ捨て場の子どもたちやゴミ捨て場裏のスラムの映像にかぶり
「この地では、飯をまずくてもいいから、食うことが一番優先され、貧しき子どもたちは、腹いっぱい食べたことがないため、胃も小さく、体格も日本人の同年齢と比較してかなり小さい。ここでは住民登録のない子どもたちの予防接種なども当然なく、貧しき家庭に生まれた子どもたちが パタパタと死んでいく。子どもの死因は肺炎結核コレラ栄養失調などで、昨日まで元気な子どもが今日急に死ぬ場合も多く、5歳未満の幼児死亡率が30パーセントにのぼる。このゴミ捨て場では一家に子どもが5人生まれれば必ず1人2人は死んでいた」

田舎の農家の映像にかぶり
「フィリピンでは一部の財閥系ファミリー数十家族がフィリピンの富の90パーセントを所有して、国民はあとの10パーセントの富を分け合う構造といわれる。 誰が自分たちの家族の富をすべて他人に分け与えるというのか。世の中にそんな聖人君主は誰もいやしない。だから、その貧困の事実や原因を知らせ、財閥に外圧をかけて、富やお金を分配できるシステムを作るのもひとつの貧困解決策である。ぜひ日本政府にもフィリピン政府や財閥などの土地を長期に借り上げ、日本人村や日本人街にして、やる気のある日本人の若者に来てもらい、お互いの国のためになる農業政策などを立案実行してほしいとただ願うばかりである」

僕は映画を見たみんなと真剣に考えて行動したい。「どうしたら世界中の貧困と飢餓と戦争がなくなるのか」を。 

          映画「(仮題)天国の子どもたち」監督四ノ宮浩

  


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