インパール作戦
  〜〜 ひとり自決した
水上少将 〜〜

 深いジャングルと峻険な山岳地帯の北部ビルマに連合軍が関心を向けたのは、日本軍によって遮断されたインド−中国間の輸送路を再開するためだった。アッサム地方の油田地帯の中心レドからナガ山系、フーコン渓谷を突破し、モガウン、ミートキーナ、バーモ、ナンカンまでの自動車道路(レド公路)を開き、それとかつての中国援助ルートである印緬(いんめん、インド−ビルマ)公路とを結び、多量の軍事物資を運ぶことによって、中国軍90個師団を近代装備の一大戦力として日本軍に当たらせようとする遠大な戦略である。
 その連合軍の戦略にもとづき、中国軍は雲南方面から大軍を南下させる一方、インドのアッサムで訓練した部隊をもこの地区に投入した。いずれも米式装備の精鋭で、しかも米軍の工兵隊・歩兵隊・戦車隊・補給隊などによって補強されていた。もちろん、在華米空軍も参加し、総兵力は
14個師団、約20万であった。
 それに対して、日本軍は、まず第18師団が立ち向かった。といっても数百キロの広大な戦域に師団は分散され、しかも師団の兵力は3分の1、火砲と輜重(しちょう、補給部隊)は2分の1に低下していた。加えて、侵入した米中軍の前衛部隊は、日本軍の得意の包囲作戦に対抗するため、戦車を円型に配置し、しかもそれを地中に埋め(砲塔だけを地表に出す)、陣地の中心に火砲を置くという円型陣地(蜂の巣陣地)を作って抵抗した。
 これに対して重火砲や航空機を持たない日本軍は攻めあぐみ、多くの損害を出し、侵入軍を各個撃破するなどということは不可能となった。
 牟田口司令官は、インパール作戦(ウ号作戦)のため、この戦線に自動車部隊による補給を行う余裕はなく、第18師団は危機に陥った。しかも米中軍は空挺部隊を投入して、同師団の孤立化を計った。それでも同師団は7ヶ月に渡って抵抗を続けたが、司令部のあったミートキーナ飛行場を占領すると空軍と高射砲部隊とをただちに配置した。そこで第18師団はついに退却したが、その敢闘は欧米の戦史家によっても称賛されている。
 なお、ミートキーナに籠城したのは
水上源蔵少将を指揮官とする3,000名だったが、それには飛行場施設部隊や後方勤務隊も混じっており、戦闘力自体は低かった。が、少将は、その兵力で3個師団を相手に死闘し、80日間陣地を支え、最後に生き残ったうち800の兵を撤退させ、自分はひとり、陣地に踏みとどまって自決した。なお、このミートキーナ攻撃で米中軍の損害は死傷約6,500名以上に達したという。
 約束した補給が来ないからといって軍司令官に反抗し、罷免され、軍法会議にかかり、わずかに「発狂」という名目で生命を全うした将軍もいれば、同様、補給なくとも80日間も頑張り、最後は傷病兵を後送し、また残兵をも撤退させ、自分ひとり陣地にとどまって自決した将軍もいた。
 だが、いずれも「ウ号作戦」の犠牲者だったことには変わりはない。制空権もなく、補給の見通しさえ曖昧なまま、この作戦を起案、実施した軍首脳の責任は大きい。
 ちなみにインパールの戦闘で、英軍(インド兵や東アフリカ兵も含む)の空中補給能力は、2万5,000から10万の戦闘集団を完全に賄ったという。その大多数の輸送機(ほとんど非武装)を撃墜する戦闘機も日本軍にはなかったのである。
 以上が、インパール作戦の真実である。

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