王家/父母姉兄 (Royal Household-Father Mother Sister Brother)
สมเด็จเจ้าฟ้ามหิดลอดุลยเดช กรมหลวงสงขลานครินทร
ソムデット・チャオファ・マヒドン・アドゥンヤデー クロム・ルワン・ソンクラー・ナカリンドラ
マヒドン・アデンヤデート親王(Prince Mahidol Adulyadej) 1892年-1929年
 マヒドン・アデンヤデート親王はチュラロンコン大王(King Chulalongkorn)とサバン・バダナ王妃(Queen Savang Vadhana)の子として1892年1月1日に生まれた。親王は医学環境と健康が国家の体裁として未発達な事に着目し医学の道に進む事を決心する。1890年シリラート病院に併設された医学校は、1969年現プミポン国王が父マヒドン親王の医学に捧げた一生を記念して『マヒドン大学』の名を冠したものである。1905年13歳の時ワット・ボヴォーニウェート(Wat Bovornnivet)で出家されソンクラー(Prince of Songkla)の尊称を授かる。父ラーマ5世は親王を興味のある自然科学の分野から遠避けようと、まずドイツポツダムのプロシア王立軍隊学校(Royal Prussian Military Preparatory College)に1年間入学させる。そこで親王は人文学と科学を専攻する。ここでの体験が親王の知性・哲学となり、人間に対する高い同情心を形成していく事になる。その後親王は父ラーマ5世の意向でベルリンのグロス・リヒターフェルド帝立軍隊学院(Imperial Military Academy at Gross Lichterfelde)に4年間学ぶが、1915年第一次世界大戦の勃発により帰国、タイ海軍の指揮官に任命される。大戦後科学の道を歩むつもりだった親王はタイ王立医学校(Royal Medical College = Medicine Siriraj Hospital)の校長チャイナート・ナレントーン王子(Chainart-narenthorn)からチャプラヤー川でのボート下りに誘われた。その時親王がボートから見た景色は川沿いにバラックを建て住む家を持たない貧困者と疫病により弱った貧民の姿であった。その時、高度医学・国民保健制度・薬学・看護学・医学探究がシャム王国繁栄と国民安寧に必要不可欠な物であると悟り、医学への道を選ぶ。
親王は最初スコットランドのエジンバラ大学(Edinburgh University)を選んだが、寒い気候のため健康を害してしまい、転地療養も兼ねてアメリカボストンのハーバード大学(Harvard University)に入学する。またマサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology :MIT)の数科目も併せて履修する。1917年タイ王立医学学校校長のチャイナート王子(Prince Chainart-narenthorn)と母サバン王妃が出資して国費留学生として4人の生徒が選ばれアメリカに近代医学技術の習得にやって来た。親王は4人のアメリカでの水先案内人として鉄道の駅まで留学生たちを迎えに来ていた。その中に18歳の看護学生サングワン・タラバット(Sangwan Talabhat)もシモン大学(Simmons College)に看護学を習得するために来ていた。これが親王と将来の親王妃2人の出会いであった。3年後の1920年9月10日には親王は彼女を連れてタイに一時帰国して兄ラーマ6世に結婚の許可をもらいスラプトム宮殿(Sraphutum Palace)で御成婚された。結婚後医学探求のためアメリカに戻り1921年には医学研究の更なる進展の為ロックフェラー財団(Rockefeller Foundation)の一員となる。この時親王はハーバード大学に一時休暇をもらいヨーロッパ旅行に出る。1923年英国ロンドンで第一子(娘)が産まれる。母親バダナ王妃の一字を付けガラヤニ・バダナ(Galyani Vadhana)と命名する。親王は2ヶ月後にタイ政府の要請で急遽帰国すると教育省の大学部局長に任命された。彼は各種の大学制度改革と教養・専門課程など欧米流の基礎・専修分野教育を導入した。タイに滞在中親王は医学の学術研究を発表しハーバード大学に戻る前、ドイツハイデルベルクに腎臓病治療の為訪れた。その1925年第二子が産まれ一字を取ってアーナンダ・マヒドン(Anandha Mahidol)と命名された。後のラーマ8世である。その後ハーバードに戻られ1927年第三子が産まれ一字を取ってプミポン・アデンヤデート(Bhumibol Adulyadej)と命名された。現国王ラーマ9世である。1928年にはハーバード大学から医学博士(Medicinae Doctor)の学位を授かり、1925年親王はタイへ帰国しシリラート医学校(Siriraj Medical School)で後進育成の為、教鞭をとる。親王は医療の現場に立ち自ら患者たちを診療・診察したいという思いが募るが、彼の王位継承順位第一位という立場がそれを許さなかった。その為親王は自らその究極の地位(次代の王位)を捨て、一研修医の道を選んだ。親王は家族をバンコクに残しチェンマイのマコーミック病院(McCormick Hospital)にインターンとして務めることになった。英国人外科部長ECコート医師(E.C. Court)に付いて外科手術の手伝いから点滴まで朝から晩まで患者たちの面倒を看た。親王は研修医として勤務中マコーミック病院内で起居した。その為過労と持病の腎臓病が重なり親王は倒れそのまま息を引き取られた。親王はハーバード在学中病院に入院した時にあと数年の命しかない事実を知ったが、家族には死期が近いことを最後まで告げず37歳の生涯をチェンマイの地で終えた。親王の名前は医科系の国立マヒドン大学にその名を残し、学内正門前には銅像も立っている。
สมเด็จพระศรีนครินทราบรมราชชนนีีี
ソムデット・プラ・スリーナカリンドラ・ボロムラーチャニー
シーナカリン王母(Phra Srinakarindra Boromarajajonani) 1900年-1996年
 平民出身で史上始めて2人の国王の母親となられたシーナカリン=サングワン・タラパット(Sangwan Talabhat)は、1900年10月21日ノンタブリー県の金細工職人チュン・タラバット(Chun Talabhat)とカム(Kam Talabhat)の娘として生まれる。父親は彼女が幼い時に亡くなり母親カムが読み書きを教えた。母親が病身の為彼女は8歳から王室に奉公に上がり、翌1909年母親も亡くなった。幼くして両親の不幸に見舞われたシーナカリンは看護の道を目指し、シリラート王室医療院付属の看護学校に通い1916年卒業する。翌1917年~1920年4人の国費留学生の1人に選ばれ米国で看護学を学ぶ機会を与えられる。その時ハーバード大学医学部で学んでいたマヒドン・アデンヤデート親王と知り合う。1920年9月10日マヒドン親王の義兄ラーマ6世ご臨席の上スラプトム宮殿で結婚。結婚後マヒドン親王の学業を続ける為アメリカに移住する。
ラーマ8世、ガラヤニ王女、シーナカリン王母、プミポン国王
医学探求の為のヨーロッパ歴訪中の1923年にイギリスロンドンで長女ガラヤニ王女を、1925年ドイツハイデルベルクではのちのラーマ8世を、1927年米国マサチューセッツでは現ラーマ9世をお産みになられる。1928年6月親王はM.Dの学位を取得、ハーバード大学を卒業され翌1929年5月にタイに帰国する。が幸せは長く続かず、1929年9月24日夫マヒドン親王がチェンマイのマコーミック病院の内科医として在勤中に37歳の若さで亡くなる。その後数年タイで過すが欧米列強のアジア侵略政策、また民衆による絶対王権反対・王室憎しの感情の高まりに不安を感じ1933年王女1人と王子2人を連れて永世中立国スイスに疎開する。彼女は子供達に欧米流の教育を施し、次代を担う国際人として通用する人間に育て上げた。シーナカリンは帰国後も「常に自然に親しむ」をモットーに刺繍/ガーデニング/押し花/陶芸に時間を費やした。また王室行事の一環として植林作業の為タイ各地を周り公園や自然園の設営に尽力された。その“気さくさ”から国民に愛された王母は息子プミポン国王(ラーマ9世)の即位50周年を祝う前の年1995年7月18日ご他界あそばされた。翌1996年日本から秋篠宮文仁親王殿下・妃御夫妻が葬儀に参列された。王母の名前は国立シーナカリン・ウィロート大学やシーナカリン通り、シーナカリンダムなどに残っている。
สมเด็จพระเจ้าพี่นางเธอ เจ้าฟ้ากัลยาณิวัฒนา กรมหลวงนราธิวาสราชนครินทร
ソムデット・プラ・チャオ・ピーナンター チャオファ・カラヤニ・ヴァダナー クロム・ルワン・ナラティワー・ラジャナカリンドラ
ガラヤニ王女(Princess Galyani Vadhana Krom Luang Naradhiwars Rajanagarindra) 1923年-
 プミポン国王の姉であるガラヤニ王女は1923年5月6日イギリス・ロンドンで産まれる。疎開先のスイスでタイ陸軍士官とご結婚されたが離婚された。翌年1945年11月11日タンピュイ嬢(Thanpuying Dasnavalaya Ratanakul Serireungriddhi)が産まれる。1948年スイスローザンヌ大学を卒業、科学の学位を取得された。1969年9月24日タイ陸軍に所属するアラム大佐(Aram Ratanakul Serireungriddhi)とご結婚される。ご主人アラム大佐は1982年2月3日61歳でお亡くなりになるが、王女は今も元気である。長いスイスでの暮らしでフランス語に長けた王女はフランス文学や詩の翻訳にも一役買い文化・芸能・学術活動に力を注ぎ、タイ民族舞踊リケーなどの後援者としても積極的に活動している。
พระบาทสมเด็จพระปรเมนทรมหาอานันทมหิดล พระอัฐมรามาธิบดินทร
プラバート・ソムデット・プラ・パラミンタラ・マハーアーナンダ・マヒドン プラ・アタマー・ラーマティボディンドラ
アーナンダ・マヒドン国王/ラーマ8世(King Ananda Mahidol) 1925年-1946年
 現国王の兄で前国王であったラーマ8世ことアーナンダ・マヒドン王。1925年10月13日父マヒドン・アデンヤデート親王(Prince Mahidol Adulyadej)がドイツハイデルベルクに持病の腎臓病治療の為訪れた。その際親王に同行していた母シーナカリン内親王の第二子として誕生する。仏陀の高弟「アーナンダ」の名と父マヒドンの一字を取ってアーナンダ・マヒドン(Anandha Mahidol)と命名される。1928年父マヒドン親王のタイ帰国に伴われて故国タイに足を踏むが、翌1929年父マヒドン親王が亡くなる。当時世界はニューヨーク発の世界恐慌が起こり英国やフランスの資本を導入して積極的にタイ工業化の道を歩んでいたが外資が撤退してタイでも不況の嵐が吹いていた。国内の政治状況はフランスに官費留学していた陸軍士官や官僚が現地で「人民党」や「共産党」を組織してラーマ7世による絶対王政に反対し民主政治獲得を標榜に活動を始めた時期であった。
それら民主政治勢力が増大し1932年にはラーマ7世に「絶対王制」を放棄させ「立憲君主制」に移行、代議員選挙も行われる情勢となった。1933年ラーマ7世は失意の内に視察と病気療養を兼ねて欧州視察の旅に出ることになり母シーナカリン内親王もその旅に随伴しスイスに疎開する。1935年英国で病気療養中のラーマ7世国王からタイの留守政府に一通の手紙が届く。内容は王位を退位したいとの事。生前退位は初めての事でもちろん留守政府も形の上では留意するように使者を出すが、国王の意思は固く、とうとう1938年退位する事になる。ラーマ7世には子供が産まれなかったために、タイ留守政府は全員一致してスイスに居る、アーナンダ・マヒドン親王に王位を継承するよう頼み、1938年2月19日スイスで即位式を行い、チャクリー王朝8代目の国王に即位する(ラーマ8世)。戦争中はスイスに疎開し、その間タイ国には形だけの摂政プリディ・パノムヨンを置いた。1945年9月日本の無条件降伏で第二次世界大戦が終結すると同年12月疎開静養先のスイスからアーナンダ・マヒドン国王はタイに帰国する。8歳で国外に出てから12年後にやっと帰国した故国は戦後処理と政治混乱が生じて一時も休む暇も無い中、時折りしも王族出身の政治家モームラジャウォン・セーニー・プラモー(M.R.W.Seni Pramoj)内閣が解散して戦後初の民主的総選挙の実施中という「政治的空白の時期」にタイの地に降り立った。そして翌1946年6月8日宮殿内でラーマ8世国王の額を銃弾が貫くという怪死事件が起こり国王が崩御された。この事故(本当は事件)は未だに真相が不明である。
1946年6月8日朝9時過ぎ王宮内の寝室でアーナンダ・マヒドン国王が崩御された。英国人医師の検死結果では国王の死因は左こめかみから右への銃創による出血死という事らしい。この死にはいくつもの不思議が存在する。 まず第一に銃は国王が護身用に所持していたCOLT45(米国将校から記念に贈られたモノ)は見つかったが発射された形跡(今でいう硝煙反応)は無かったとの事、またこのコルト45という米国製の拳銃は第二次大戦中アメリカ軍仕官に配給された正式拳銃でそう簡単に暴発するような銃では無く引き金が硬くとても片手で撃てるような代物では無い。 第二に頭部を貫いた弾丸の薬莢が発見されていない(証拠隠滅か?)。 第三に自殺と仮定すると右利きの国王が自ら左手に銃を持って額を撃つという事態が不自然である。 第四に4日後にスイス・ローザンヌ大学の卒業式が控えていた事など・・・、これらの事実を突き詰めるととても自殺とは考えられない。また他殺とするには犯人が捕まっていない。結局王室はこの怪死事件を「銃の暴発という事故で国王は崩御された」と一応内外にはコメントしたものの不自然な事実ばかり・・・。事件後、ラーマ8世王の侍従に対して暗殺嫌疑の裁判が行われ何度も法廷闘争を繰り返したが、証拠不十分のため不起訴・無罪と決した。この事故(事件)の首謀者は当時アジアの社会主義・共産化を恐れるピブンソンクラーム率いる軍部と、共産思想に傾倒していたプリディ政権(事件当時の首相)との間には常にイザコザがあったため軍部が画策してプリディ失脚を狙った軍部による犯行説、王制反対派による凶行、など様々な犯人像が浮かび憶測を呼んだが、今では戦後混乱期の最大の謎となってしまった。