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当社の氏地
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野崎町

 〒530-0055
 大阪市北区野崎町(のざきちょう)

 北は神山町と南扇町、、東は南扇町、南は西天満5丁目、西は太融寺町と兎我野町に囲まれた地域である。

 この町で一番目につくものといえば、町の西側を走る広い道路の中に玉垣で囲まれた一本の大きな銀杏が目に付く。昔、この銀杏を邪魔だから切り倒そうとした人がいたが、斧を入れた人すべてが変死したという曰くのある銀杏で、いまも銀杏の幹周りには斧を入れた後が2、3か所根元近くに残っている。祟りを恐れた人々がこの銀杏を神木として祀り、龍王大神として今も篤く信仰されている。

 他にも夕顔寺などの古刹も江戸時代の寺町の名残から残っており、野崎公園や読売新聞社の社屋が中心の町であるが、歴史を感じる町でもある。

 また、この町は大阪地誌において論争の地である事も触れておきたい。論争というのは、古代難波にあった水路の一つに安曇江というものがあり、その所在をめぐっての論争である。

 この安曇江という地名は古代の文書には度々登場する、風光明媚な景勝地であったと考えられる場所で、古代に日本に渡来した「阿曇氏」の氏寺である「阿(安)曇寺」との関係もある土地と考えられているが、その所在が今もって不明なのである。その所在を推測されている場所が2ヶ所あり、一つが現在の中央区、安堂寺町附近、もう一つがこの野崎町である。

 戦前までは安堂寺町にある油掛地蔵尊のある附近が阿曇寺の地であると仮定されていた。それは、この地蔵尊の背面に「天平11年安曇寺」との銘がある事が『摂津志(享保21年)』などの記述から判明した事による。現在は既にその文字は見えなくなってしまっているが、この附近の渥美という地名も安曇から来ているからといわれ、有力な安曇江の地といわれ続けてきた。

 しかし、明治19年(1886)の大阪実測図にこの町あたりの字として「アドエ」の地名が記載されているのが戦後になって発見され、また、京都市山科区にある安祥寺にある梵鐘に「摂州渡辺安曇寺洪鐘一口 嘉元4年(1306)」と銘があり、ここに見える「渡辺」とは「渡辺津」の事で、現在の大川周辺を指す古い地名である事から、大阪市史や近年の大阪地誌の研究では、野崎町附近が古代の安曇江に相当する地域としている。確かに、『続日本紀』の天平16年(744)2月22日の条にある「安曇江に行幸。松林ご覧遊ばす」とあり、当時、東側にあったであろう大将軍の森の松林がそれにあたると推測される。

 さらに、大治5年(1130)3月13日の東大寺諸庄文書竝絵図等目録所引の天平勝宝2年(750)4月12日付の民部省符に、東大寺の荘園であった新羅江庄の東西南北を示した記録があり、その史料にも安曇江の字が見えることから、野崎町附近を安曇江と仮定してみても矛盾はない。

 しかし、摂津誌や大日本地名辞書などは、安曇江の場所を安曇寺のあった現在の中央区、安堂寺町附近に求めている説もある事から、今後の研究を待ちたい。



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