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太融寺町

 〒530-0051
 大阪市北区太融寺町(たいゆうじちょう)


 真言宗高野山準別格本山、佳木山宝樹院太融寺に由来した町名で、現在同町の中央部に太融寺がある。

 太融寺町は明治33年4月の町名改正により北野太融寺町となった。それまでは西成郡北野村であり、明治30年に大阪市北区に編入された。

 太融寺は嵯峨天皇の弘仁年間、弘法大師がこの地に来り、鬱蒼たる樹林の中から異香のの薫りを放つ霊木を採り、これをもって地蔵、毘沙門天を刻み、その地に寺を草創し、これを安置したのがはじまりと伝えられる。

 その後、嵯峨天皇よりの念持仏である千手観世音菩薩を下賜され、嵯峨天皇の崩御の後、天皇の皇子である、河原院左大臣源融公が同寺を訪れ、清和天皇に奏して諸堂を修補し、これを七堂伽藍となした。その時、同寺は霊木によって創建された故事により、山号を佳木山と名づけ、その諱を太融寺と号し、寺領は八町四方に及ぶに至った。このようにして寺門は栄えたが、その後の兵乱のため荒廃した。これを再興させたのが僧快済であった。後醍醐天皇の建武3年には攝津吹田荘が同寺の寺領として綸旨があたえられている。江戸時代に入って、正徳4年には鍋島肥前守によって愛染堂が建立された。同寺は大坂三郷をはじめ、遠近各地の信仰をあつめ、毎月21日の大師めぐりや庚申の縁日には多数の参詣者で賑わった。また、太融寺の富くじ興行は有名で、摂津箕面の弁財天の富くじとともに全国的に知られていた。

 この太融寺の境内には淀君の墓がある事でも有名である。元和元年に大坂城落城の際、秀頼とともに自決し、その遺骨は東成郡鴫野村の弁財天島に埋葬されていたが、明治10年1月同地が陸軍営地となったので、淀君の墓を移そうとする動きがあり、当時の北野村戸長、西尾孫四郎の尽力で、その墓石は太融寺の境内に移される事になった。

 明治13年3月には、自由民権運動の中核的な存在として同寺があり、板垣退助、片岡健吉、植木枝盛らがその指導者となっていた愛国社の第4回大会が太融寺において開催された。会場には114名の総代が集まり、この運動を全国民的な運動に盛り上げ、国家の開設を期し、国会期成同盟を結成させる事になった。

 その後、国会期成同盟は自由党へと発展していったが、秩父事件や加波山事件などが起こり、同党は分裂の危機におそわれ、ついにはその解党をこの太融寺において決議した。同寺は近代政治史の上で重要な決定を行った場所としても注目される。

 この太融寺町には明治初年まで綱敷天神社の御旅社であった常安寺こと梅塚天満宮が鎮座していたが、神仏分離令(廃仏毀釈とも)の影響で破却され、一旦、梅ヶ枝町(現在の西天満6丁目)に一時的に移され、数年後に現在の鎮座地である茶屋町へと移った。この梅塚天満宮のあった地こそ、菅原道眞公が愛でられ、梅田の地名の由縁ともなった紅梅樹があったが、これも明治維新の動乱期に国より民間にその土地が払い下げられ、記録から散逸してしまっており、現在では紅梅樹がどのようになったのかを知る術も無い。しかし、そのあったと思われる場所は近年の研究で、現在の太融寺町の北東、扇町通や専門学校のあるあたりであったろうと推察される。いずれ再び梅田の地に梅塚の紅梅が咲くことを期待したい。




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